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2008年8月

2008年8月31日 (日)

神戸で最初の公園

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<神戸市役所から見た東遊園地>

神戸市で最初の公園は、明治元年にできた東遊園地です。
もっとも最初は「公」園ではなく、外国人専用でした。

公園自体は、市役所のすぐ南側ですし、ルミナリエの会場の一部にもなっているのでご存じの方は多いと思います。

旧外国人居留地の東の端で、写真左側のフラワーロードを流れていた旧生田川の堤防敷3.13haを、米国人の申請で借地して始まったものです。当初は「外国人居留遊園」「内外人遊園地」などと呼ばれ、明治8年に内外人公園、外国人から返還されてからは加納町遊園地、そして大正11年に東遊園地と改称されました。

居留地にはこのほか、明治3年に海岸遊園、明治5年に西公園(前町公園)という小さな公園ができましたが、その後、消えてしまいました。

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<公園平面図>

神戸市役所が建っているところも元は東遊園地で、戦後分割されました。

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元はスポーツのための施設で、競馬、ローンテニス、サッカー、クリケット、野球、陸上競技など近代スポーツがここから始まったそうです。

今は広場があるほかは静かな公園です。

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<公園の最南端から>

左手に見える近代建築風の建物は、居留地時代の在留外国人の社交クラブ(神戸クラブ)を摸した公園管理事務所です。

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その隣にはこれも居留地時代のスポーツクラブ(神戸レガッタ・アンド・アスレティック・クラブ)を摸したレストハウスがあります。

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参考にした建物の写真が解説とともに掲示されています。

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昔、ここに川があった名残として、加納橋の橋柱が立っています。

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公園内には記念碑が非常に多く、例えばこれは、A.C.シムの記念碑です。
スコットランド出身のシム(1840-1900)は、30年にわたって神戸に住み、神戸で亡くなっています。事業の傍ら、公共事業、スポーツクラブ、消防組織、大阪の水害・岐阜の地震・東北の津浪など災害復興支援などに尽くしました(碑文より)。神戸市のHPによれば、シム商会は日本で初めてラムネを発売したそうです。

「神戸・横浜・長崎の外国人及び日本人の友人たちによって建てられた」と刻まれているのがいいです。

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こちらはモラエス胸像。
ポルトガル海軍将校にして作家であったモラエス氏(1854-1929)に1983年、ポルトガル海軍から送られた胸像です。1898年(明治31年)から1913年(大正2年)まで神戸に住み、徳島に移ってそこで亡くなったそうです。

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ボウリング発祥の地のモニュメント。
何気なく置いてあります。

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日本近代洋服発祥の地のモニュメント。
ベンチも兼ねているようです。

この付近で、明治2年に英国人カベル氏、ついで英国人スキップ氏、中国人其昌号氏、日本人の泉小十郎氏が洋服店を開業、続いて明治5年に西田正太郎氏が開業したそうです(碑文より)。
昭和49年に設置されました。

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このモニュメントは水道が1900年(明治33年)にこの付近から給水を始めたことを記念するもので、縁石は創設時の北野浄水場で使われていたものだそうです。

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新しいところでは、阪神淡路大震災の1.17希望の灯り、メモリアルモニュメントなどもあります。

スポーツに湧いた当初の姿からは変わってしまいましたが、神戸で最も多くの記憶をもつ公園なのは間違いありません。

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○参考資料
 辰巳信哉『神戸からの公園文化 兵庫の公園1868-2000』、2000年、ブレーンセンター

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青島・煙台の旅(23)青島の家と海を眺める公園

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再び八大関の別荘地に向かって歩いていきます。
まず魚山路を歩いていきます。

道の左手に大きな建物が見えました。(木が邪魔で見にくいけど)
1934年から1940年にかけて建てられた旧世界紅卍字会青島支部です。世界紅卍字会は、赤十字と似ていますが、道院という宗教の慈善団体だそうです。山東省発祥なので、本拠地に近く、煙台にも支部がありました。

今は青島市美術館ですが、残念ながらこの日は休館日。開いてたら絶対に入ってます。

建物は前後に分かれていて、後方は1933年に建てられた中国宮殿風建築(未確認)、写真が前方に1937年から1940年にかけて建てられた洋風建築部分です。前方部分の建築家は王翰で、施工は公和興営造廠ですので、中国人の手になる建物です。

世界紅卍字会はここを拠点に、救済院、慈善医院、職業学校、女子小学校、救済隊などの慈善活動を行っていました。

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中国風の塀越しに正面を見ることができました。
古典建築+アール・デコという感じ?

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このあたりは小魚山と呼ばれる丘の住宅地で、著名人の住宅がたくさんあるところです。

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やがて、立派すぎる門が見えてきました。
中国海洋大学の門です。

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木々の上から赤い屋根と塔屋が顔を出しています。
実は日本の青島中学校だった建物です。第一次青島占領期の1920年に建てられました。もともとは清の広武中営という兵営があった場所だそうです。
ドイツ風の建築ですが、設計者は日本人の三上貞で、施工は公和興営造廠です。

当時は日本の男子学生だけを受け入れていました。建設費は19万元余りが投じられ、当時の中国の日本人学校では最も設備が良かったそうです。旧制とはいえ、大学の校舎に使えるほどの中学とはすごいものです。

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魚山路を歩いていくと、切り通しで岩盤の露頭を見かけました。上に同じ色の石垣が積まれていて、生えてきたみたいです。やはり赤い石は地元の石材を使っているのですね。煙台で見た花崗岩の毛鼓石にも似ています。

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小さな峠を越え、ふと覗き込んだ敷地の奥に気になる建物が見えました。
左手には入場券売り場があります。この建物を近くで見たくて、小魚山公園の入場料15元(225円)を払って入りました。しかし、実はそこは公園の外なのでした・・・しまった。

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膠海関(税関)所長のエルンスト・オルマー(中国名:阿里文)の邸宅という掲示が出ています。多才な人だったらしく、設計者も本人です。1899年に建てられました。

オルマーは、1847年、ドイツのヒルデスハイム生まれ。1868年に中国で税関の仕事に就きました。1898年に税関設立準備のために青島に来て、1899年から青島の初代税務所長を務めています。1914年の日本による青島占領の直前にドイツに帰国しました。中国文化にも造詣が深く、多くの陶磁器を故郷に持ち帰ったそうです。

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出窓からは海が眺められたでしょう。

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せっかくですので、小魚山公園の中にも入りました。
頂上には中国風の塔の形をした展望台があります。

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この公園も眺めがよく、西にはさっき登った信号山が見えます。

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南にはドイツ風住宅のコンクリートの躯体ができあがろうとしていました。
中身は鉄筋コンクリートの塊なんですね。

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東は海水浴場の砂浜海岸があります。
青島はぼこぼこした半島に広がる街ですが、南海岸はさらに岬と浜辺が交互に繰り返して変化があります。これから向かう八大関は、左右のビルの間にある緑の岬です。

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展望台を降りて、一息ついていたところ、にわかに海霧が来襲してすっかり周りが真っ白になってしまいました。頭も真っ白です・・・

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月30日 (土)

青島・煙台の旅(22)青島の石畳の街

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青島迎賓館を出た後は、別荘地の八大関をめざしました。
といっても途中の道も見落とせません。
青島迎賓館の下は、坂の多い丘陵地で、古くから庭付きの住宅地です。
黄県路の角でこの家を見かけました。

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植物模様の入った古そうな門扉です。

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向かいの角の雑貨店。狭いところで頑張っています。

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黄県路は石畳の味のある道なので、少し遠回りですがこちらの道を下りました。
1984年、リー・リンチェイ主演の映画「中華英雄」(ファイナル・ファイター/鉄拳英雄)がこの通りで撮影されたそうです。私は見たことがありませんが。

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門の上のレリーフ。
唐獅子牡丹でしょうか。

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道も塀も建物も同じ材料でできているような色合いです。(もちろん建物は違いますけど)

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塔屋のある家。

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同じ家です。
ゲーム盤を連想してしまいました。

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そろそろお昼なので、坂を下りきった龍口路のあたりで、流行ってそうな店に入りました。
この店はサンプルとして、セットされた材料を並べています。面白いやりかたです。これなら、知らない料理を頼んでも失敗が少なそう。

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私はインゲン豆のエビソース炒め(蝦醤芸豆)を頼みました。1皿12元(180円)
見た目よりおいしいのですが、一人で食べるといろいろ頼めません。1皿でいろいろ材料を使っている料理を・・・と考えてしまいます。
やっぱり青島ビールもいただきました。

青島迎賓館は素晴らしいのですが、私にはこれぐらいのまち歩きが合っている気がします。

○参考資料
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月29日 (金)

青島・煙台の旅(21)青島の奇怪な官邸

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<信号山から見た青島迎賓館>
東西の建築を寄せ集めて粘土で固めたような、何とも奇っ怪な建物。

青島迎賓館は、青島を代表するドイツ建築です。
信号山の南山麓に、ドイツ総督官邸として建てられました。
1905年着工で、1908年竣工。設計者はドイツ人のラツァロヴィッツ、建築監督はシュトラッサーです。

1914年に日本が青島を占領すると駐青島守備軍指令官邸となりました。1922年に青島が返還されると膠澳督弁官舎、1934年に国民党が青島を接収すると迎賓館と改称され、日本再占領期の1942年から45年までは国際倶楽部が一時移ってきました。新中国となってからは再び迎賓館として、国家指導者と外国賓客を接待するホテルとして使われました。1999年から博物館として公開されています。目まぐるしい変遷です。

ちなみに入場料は15元(冬の閑散期は10元)でした。

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まずは正面(西面)から。
細部に至るまで、いろんな要素が詰まっています。花崗岩の壁面は生物のようです。
ユーゲント・シュティールの影響を受けているといいますが、ここまで自由奔放とは。
ドイツの総督官邸という権威的な建物がこんなに奇抜な形で中国に残されたというのは時の綾といえるでしょうか。

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中央に見えるちょこっとした出っ張りは、ドラゴンの彫像です。

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北面は食堂の外壁。
ここはまだシンプルな方。

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東面は花崗岩の荒々しさが目立っています。
ある意味、遊園地的です。

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最も整った南面。
ベランダを挟んで塔がいくつも立っているようです。

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一周して東の正面に戻りました。
こちらにも小さなベランダがあって、そこは総督の部屋です。

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外観だけで、もう十分という感じですが、これから中に入ります。
ユーゲント・シュティール風アーチの玄関です。

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中に入ると大ホールに出ます。2階まで吹き抜けの大空間。他の部屋はこの大ホールを囲んで配置されています。そして壁を巻くように2階に上がる階段があります。
1階奥の窓にはマリア様の描かれたステンドグラスがあります。残念ながら近くから撮り忘れていました。

ヨウタロウさんが中国・青島@建築探訪記で紹介されていますので、ご覧ください。

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振り返るとこんな感じ。ふんだんに使われた木と白い壁の落ち着いた空間です。
右下に暖炉が見えますが・・・

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近くで見るとこんな思い切ったデザインです。
緑釉のタイルが渋めの色合い。

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こちらは別の部屋の暖炉で、花の模様が繊細です。

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1957年に毛沢東が滞在したという喫煙室のステンドグラス。
青島の海なのでしょうか。

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ディナールーム。もう一つ小さなダイニングルームもあります。

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東面には温室がつくられています。
打って変わって鉄骨とガラスの空間です。

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1階を1巡したら2階へ。
布でできたような柔らかな表現の階段手すりです。

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2階にはL字型に回廊が巡っています。内にもベランダのアーチ。

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総督夫妻の寝室です。

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北西隅にある林彪の部屋。他の2階の部屋から1段下がっています。

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室内装飾の数々を集めてみました。
左から林彪の部屋の漆喰細工、2階廊下の照明、非公開の部屋の内側出窓です。

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2階の南側ベランダからは広い庭越しに青島の住宅地が見えます。
ベランダに出る部屋は子供部屋というのですからなんともぜいたく。

とことん凝った総督官邸でした。
青島で建物を見るなら、ここは外せません。

○参考資料
 「青島迎賓館解説リーフレット」
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社

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2008年8月26日 (火)

青島・煙台の旅(20)青島の街を見下ろす公園

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青島旧市街の中心部にある信号山公園に入りました。
名前の通り、見ての通りの山です。
こちらは龍山路の入り口。

公園は入場料15元(225円)もします。
観光客にはともかく、市民には無料にすればよいのにと思うのですが。
団体の観光客はたくさん訪れていました。

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ちなみに山の下にはトンネルが貫通していて、実は元の防空壕です。これが1981年にホテル(!)・龍山賓館に転用され、1985年からは龍山地下商業街という商店街になっています。400店舗もあるそうです。

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話がそれましたが、山に登ります。
青島の赤い街並みと近代的な高層ビル、海を眺めることができます。
海から霧が押し寄せているのもよく分かります。

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どんどん登っていくと眼下左手に青島迎賓館(次回紹介します)と正面に小魚山公園の塔(後日紹介します)が見えます。

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山の上にはこんなものもあります。
恋人同士が鍵をかける橋。日本と同じ。

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山頂にはキノコのような展望塔が立っています。
(キノコじゃなくて松明だそうですが)

信号山は海抜98m。1898年にドイツ軍が航海信号用の旗台を設置したので、のちに信号山と呼ばれるようになりました。公園になったのは1987年なので新しい公園です。
今では代表的な観光スポットの1つになっています。

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展望塔の中はこんな風になっています。
周囲の床が1周20分ほどで回転する回転展望台です。
なぜか色ガラスをはめているので困ります。
うまく補正できなくて色がばらついていますが、ご寛容ください。

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こちらは北西方向。
中央は気象台です。1905年に設置され、現在の建物は1912年に完成しました。

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西方向。
赤い屋根とともに緑も多いことが分かります。

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青島基督教堂(旧青島福音堂)がきれいに見えます。
1910年にロートケーゲルの設計で建てられた教会です。ユーゲント・シュティールの影響を受けた造形で、とても色鮮やか。
その右側の緑道はさっき歩いてきた沂水路です。

○参照  ヨウタロウさんが中国・青島@建築探訪記で紹介されています。

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同じ道を戻っても仕方ないので、裏側(北側)の斉東路に降りてみました。
次の目的地は、さっき見た青島迎賓館なので、どんどん階段を下ります。

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ここは余裕のある戸建て住宅街です。

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新しく建てられたドイツ風の集合住宅もあります。
どこまで行ってもドイツ風。

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山を下り、信号山を右手に見ながら半周ほど回りました。
このあたりは赤みがかった石塀が特徴的で、おそらく地元で採れる石なんでしょう。それに合わせてコンクリート塀も茶色く塗られています。
これ以上は坂を下らずに右へ。

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ようやくゆるやかな上りになります。再び龍山路です。

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雰囲気のある洋館などが見えてくると、青島迎賓館はすぐ近くです。
次は青島迎賓館に入ります。

○参考資料  竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社  魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月23日 (土)

中山道・加納宿のあたり(岐阜市)

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岐阜に出張に行ったついで。
仕事が早く終わったので、中山道の加納宿あたりに立ち寄りました。
上の写真は街道筋ではありませんが。

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街中なのにちょっと大きなお屋敷などもあります。
朽ちているようなのが残念。

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加納桜道から江戸に向かう街道に入り、しばらく歩くと唐突にこの建物。旧加納町役場です。武田五一の設計で大正15年に建てられました。
シンメトリーをかなり崩したデザインです。玄関のアーチやディオクレティアヌス窓(半円を2本の柱で分割した窓)にも目が行きますが、それよりも建物全体の発する古び方の凄みに圧されます。

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玄関脇には登録文化財の表示が立っています。

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でも老朽化の問題で立ち入り禁止。あまり近づくこともできません。
建物の無事を祈ります。

(追記)
 残念ながら解体が決まったそうです。
 →中日新聞「旧加納町役場解体へ」(2015.1.2記)

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加納は城下町でもあります。
大手前通りで街道は北に折れ、この広井橋で小さな清水川を渡ります。この広井橋は昭和27年の橋で、まだこの頃の橋は味わいがあります。

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中山道と御鮨街道の分岐で、再び中山道は東に折れています。東の中山道を見たところ。
御鮨街道という言葉を私は初めて聞きました。江戸の将軍家に長良川の鮎鮨を運んだルートだそうです。鯖街道と似てますが、こちらは鮨にしてから運んでいたようです。
もっともそんなに頻度のある話ではないでしょう。

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私は御鮨街道を北に逆走します。
名鉄の線路を渡ると花街の名残らしき3階建ての町家。

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銅の戸袋、名前入りの瓦など凝っています。

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加納東広江町のあたりは古い町家が残っていました。
2階建てで、両袖の木の壁が出て、前のめりでという特徴は共通しますが、なぜか高さ、出方がばらばら。今、気付きましたが、菱の穴あきコンクリートブロックが合ってます。

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こちらはゆったりした家。塀に品があります。
このあたりでも石垣は丸石です。

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こんな穴あきコンクリートブロックもあるのかということで。花に雲の図案化でしょうか。

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清水川をたどって岐阜駅に出ました。
自然の河岸を再現した川で、岐阜の街中を流れながら、とてもきれいです。

岐阜駅の表は表で、60〜70年代の建築群に見どころを感じますが、岐阜駅の裏の加納地区も戦前の風情があっていいものです。

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2008年8月22日 (金)

岐阜の小さな公民館

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岐阜に出張でした。
岐阜市というのはどうも車型の街で(中心部は違うけど)、縦横に立派な道路が走って街が拡散しています。寄り道しようにもとっかかりがなく、地図で見つけた近くの旧集落に飛び込んでみました。

長良川沿いの下奈良という集落です。
そこにあった丸石積みに高野槙の石垣と古そうな建物。

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地図には旧下奈良公民館と書かれていました。
和風屋根ながら、2階の半分まで下見板張りです。
懐かしさあふれる建物。

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妻部分に梁が飛びだしたようになっていて、そこに屋根がかけてあるのがかわいらしい。滋賀、岐阜、三重で見かけますが、いまだ名前と意味を知りません。

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窓の桟に一工夫があります。
こういうところも味のある建物の隠し味になっているんでしょうね。

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2008年8月19日 (火)

青島・煙台の旅(19)青島ドイツ総督府と邸宅街

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青島租借地のドイツの都市計画で中心に置かれたのが、この旧ドイツ総督府です。
租借当初、総督の公務のほとんどは、街の東にあった私邸で行われていました(総督官邸もまだできていなかった)。

この建物は1904年に着工し、1906年に竣工しました。
外壁には地元の赤みのある花崗岩が使われています。
役所らしい、いかめしい建築です。

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旧ドイツ総督府は少し高台にあり、海を見下ろしています。
総督府の前には広場があり、あらゆる方向に道路が延びています。広場から海の方向へは階段があり、ウィルヘルム通り(不入斗通、青島路)がまっすぐ海に向かっています。この右にプリンツ・ハインリッヒ・ホテル、左に徳華銀行(ドイツ・アジア銀行)、左手前にドイツ領事館がありました。

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旧ドイツ総督府の正面。
1914年に日本が青島を占領したのち、総督府は日本守備軍司令部になりました。1922年に青島が中国に返還されると膠澳商埠督事務所、1929年7月に青島特別市政府の所在地となりました。1938年1月に再び日本が占領して青島特別市政府になり、1945年の終戦後は南京国民政府の青島市政府所在地となりました。

既に市役所は別の所に移転しましたが、現在は青島市人民代表大会常務委員会、中国人民政治協商会議青島市委員会が入っています。一般人の行くところではないですが、周辺を散策する人はたくさん見かけました。

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古典主義を基本としているといいつつも、窓はユーゲント・シュティールの曲線ではないでしょうか。

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総督府の斜め前(沂水路14号)には旧英国領事館があります。
1907年に建てられたそうです。当初は政府役人の住宅だったらしく、住宅っぽく見えます。
領事館となってからもずっと使われていたわけではなく、あちこち引っ越したり、1941年に日本軍に差し押さえられたりしました。1945年に復活しますが、最終的に1951年に中国との外交関係が途絶えて閉館となりました。

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ここから沂水路(旧ディーデリヒッス通り、赤羽町)という道が伸びて、左側がかつての邸宅街となっています。フランスアオギリの並木が続いて、今も緑が豊か。

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賑やかなお屋敷があったので寄り道してみました。
庭が朝市の会場として使われているようです。もう10時で片付けに入っていました。

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このお屋敷の主は、旧ドイツ第三海軍営部です。
実質的なドイツ軍の中枢でした。
所在地は沂水路9号、建築時期は1899年という非常に古いものです。
最初はこのあたり何もなかったみたいです。
沂水路もまだできていませんでした。

1923年には青島診療所が移ってきて、1933年に増築されるとともに青島鉄路医院と改名されました。解放後は鉄道局招待所、今は何でしょう。

いろんな要素を組み合わせた建物のようで、見どころ豊富です。

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たまたま旧ドイツ第三海軍営部は入れましたが、この通りの建物は高い塀にさえぎられて見えにくいものが多いようです。

こちらは沂水路7号のドイツ式住宅。1907年に建てられたディートリッヒ(?)氏別荘です。よく見えません。1933年には中魯銀行の頭取宅になりました。

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沂水路5号のスティック・フォース別荘はよく見えないので飛ばして、こちらは沂水路3号の石垣です。恐らく地元の石材を使って、連続アーチで美しく積んでいます。

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入り口もこんなふうに中が窺えません。
入れそうな雰囲気だったので、ちょっとお邪魔してみました。

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今は幼稚園のようですが、1903年にドイツ人が建てた別荘です。1912年にモンゴルの王族・多羅特(ドロト?)公升允の王邸になりました。升允は、清朝で陝甘総督を務めた人物で、清朝滅亡後、青島に身を寄せ、ドイツや日本の助けを借りて清朝を復活させようとしていたそうです。

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沂水路1号の旧アメリカ領事館の門です。
よく見ると細かい植物模様。
門だけでも見ごたえがあります。
建物は1912年の竣工です。

ここまでで沂水路は終わり。
向かいの青島基督教堂から、日曜礼拝を終えた人たちがぞろぞろと降りてくるところでした。

○参考資料
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月17日 (日)

青島・煙台の旅(18)青島の広西路

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青島の桟橋から中山路を少し北上、広西路を東に入ります。
中山路から青島路まで、西から東に歩きました。

広西路は、ドイツ租借時代はプリンツ・ハインリッヒ通り、日本占領時代は佐賀町と呼ばれていました。青島のドイツ期につくられた街には、結果的に1つの通りに3つの名前がつく場合があります。

まず中山路の角にある建物から。
本などでは見つけられませんが、興味をひかれたので紹介します。
中国的要素を少し加えたモダン建築という感じです。
今は青島市動物衛生監督所などが入っています。

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入り口部分を見上げると、幾何学模様と植物模様のデコレーション。

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面白いなと思ったのは、1段高くなった屋根の部分に、中国風の斗拱(日本でもお寺で使われているような)のデザインが使われていることです。地味な戴冠様式なんでしょうか。

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窓枠には花柄、面格子は中華風です。

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その南東向かいにあるのが、旧マキシムビル(馬克西姆大楼)。
ちなみにドイツ租借時代の都市計画では、この通りは3階建て、高さ18mに規制されていたそうです。
左側の浙江路側には、ドイツ人の経営するマルクスレストランがあり、ステーキやビールを出していました。右側=西側はアパートでした。

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交差点を挟んで斜め向かいの広西路37号は、旧侯爵庭院飯店です。右(東)隣は旧医薬商店。
木に隠れていますが、隅に塔が立っています。
このホテルは1910年に竣工しました。

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近くから撮った写真がこちら。
楽しげな気分になる建築です。
若い娘さんでも住んでいそう。

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でも今は青島市南区公安分局、つまり警察署です。
(造花とはいえ)花を飾ってきれいにしているのに。
1922年に警察署になり、それ以来ずっと警察署です。

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旧侯爵庭院飯店の隣には、赤い建築が3軒並んでいます。
左は既に紹介した旧医薬商店です。青島解放後、旧医薬商店には第一軽工業局が入り、新しい事務所ビルを隣に建てました。それが真ん中のビルです。そして右角は広西路27号の旧プリンツ・ハインリッヒ通り理髪店です。

この理髪店は、1905年以前の建物だそうですが、昔の写真を見ると壁面は白で、角に丸みを帯びた塔が立っています。壁の色については、旧医薬商店の色に染まってしまったようです。

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きれいな配色だと思うんですけどね。
三角破風に花柄などがあしらわれてきれいです。

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階段も古い木製のものが残っていました。

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安徽路を挟んで理髪店の向かいは、旧ドイツ膠州郵政局です。
初めは馮・提帕斯基希(フォン・ティパスキス?)社商業ビルとして建てられました。施工はドイツ・ハンブルグのF.H.シュミット社。(案内板より)
ということは、初めからの郵便局建築ではありません。
いくぶん硬い印象を受けます。

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煙台では文化財のプレートがはまっていましたが、青島では主要な建築には「歴史優秀建築」のプレートがはまっています。

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さらに東に歩いていくと、旧ユダヤ会館の隣(広西路9号甲)に旧カール・ベディガー商会があります。重ね餅型に立ち上がった壁に1903の年号が入っていて、1903年の建築と分かります。ベランダが植民地建築らしい雰囲気を出しています。

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近寄ってみると装飾はシンプル。

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ドアには植物風の模様が鉄棒で表現されていました。
彫刻は素人が彫ったような素朴さです。
壁にはスクラッチ風のタイルが貼られています。

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やがて、旧ドイツ領事館が見えてくると、いよいよドイツ租借地の中枢部。
ドイツ領事館については、翌日再訪しましたので、改めて紹介します。

広西路は特色ある建築の見られる密度の濃い通りです。

○参考資料
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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青島・煙台の旅(17)青島の桟橋周辺

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青島は海岸の方から歩き始めました。
青島に関しては情報も多いことですので、簡単に紹介していきます(つもりです)。

 例えば、ヨウタロウさんが「中国・青島@建築探訪記」のブログで素敵な写真とともに青島の建築を紹介されています。ぜひご覧ください。

まず桟橋・王子飯店の西隣は、地元新聞社の青島日報社です。これは新しい建物のようです。青島のややこしいのは、ドイツがこの街を去ってからも今に至るまでドイツ風の建物が建てられ続けていることです。景観的には好ましいのですが、古い建物を見たい者には分かりにくいところです。
わずか20年足らずの統治でこの街のあり方を決めてしまったドイツに驚きます。

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青島のシンボルである桟橋は霧にかすんでいます。
当初は1893年に清朝が建設した軍用の埠頭でした。
ドイツ時代には貨物埠頭になり、1901年に拡張されています。1914年の日本による青島占領、1922年の中国返還をへて、1923年には桟橋のたもとに公園が開かれました。1931〜33年に青島市による再拡張工事が行われ、先端に中国風の回瀾閣が建てられたことで、市民憩いの場となって今に至ります。

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ところで海岸を歩いていると、紅いビブスをつけた若い人たちが、新聞を売り歩いていました。「青島早報」の四川大地震特別編集号をボランティアの大学生などが販売しているようです。義捐価格1部10元(150円)というその新聞を私も買ってみました。
100ページにも及ぶ、ほとんどカラーの新聞でかなり力が入っています。

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この写真は別の場所ですが、後で江蘇路キリスト教会の側を通りがかったとき、日曜礼拝を終えた人たちに新聞を売るボランティアの人たちを見ました。あちこちで見かけましたので、かなりのボランティアが参加していたようです。

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さて、同じく海岸通りにある青島音楽ホール。
かつての青島市大礼堂あるいは蘭山路礼堂です。
金融資本家の寄付金で1935年に建てられた青島市の公会堂です。
2006年頃、改修工事が行われて音楽ホールとして再生しました。

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桟橋前の道路は地下を横断するようになっていて、地下には土産物店が並んでいました。貝殻やサンゴ、ハリセンボンなどが売られています。懐かしい気分になります。

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海岸通りの太平路と繁華街・中山路の交差点には旧青島倶楽部の建物があります。
1911年に、クルト・ロートケーゲルの設計で建てられ、当初はドイツ軍人・行政官の倶楽部でした。1922年には青島国際倶楽部となり、各国の名士や中国の上流階級の社交場となりました。
日本の軍施設、国際倶楽部、中ソ友好館をへて、今は青島市の科学技術協会が使用しています。

なお、ロートケーゲルは、前回紹介した旧医薬商店の設計者でもありますが、ドイツ軍俘虜として日本に抑留されていた時期もあったようです。その後、中国に戻り1920年代は北京・天津・瀋陽などで活躍したそうです。

○参考資料
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『老楼故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月15日 (金)

青島・煙台の旅(16)青島の近代建築に泊まる

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青島で迎える3日目の朝。
青島でももちろん近代建築に泊まりました。
海岸にある「桟橋・王子飯店」です。
ロケーションがよく、海を眺めながら朝食がとれます。

予約した時点でよく分かっていませんでしたが、ここはドイツ人地区のまっただなかです。

◇青島のドイツ植民地に関する参考ページ
 鳴門教育大学図書館の特別展「敗者へのいたわり」での
 立岡裕士助教授による解説「ドイツ山東植民地および青島の概要」が、
 ビジュアルで分かりやすく、参考になります。

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とくに青島のシンボルである桟橋を眺めることができるのがいいところです。ただ、今朝はあいにくの霧(霧は青島の名物らしいので、青島らしいともいえるのですが)で、霞んでいます。

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桟橋・王子飯店は、上海のドイツ・マンデル社が投資して、主楼部分が1899年に開業しました。1年余りのち、マンデル社は青島旅館業連合協会にホテルを売りに出し、1910年前後にハリー洋行が権利を取得しました。1905年から1906年にかけて建築家クルト・ロートケーゲル(Curt Rothkegel)がホテル北側にユーゲント・シュティール(ドイツ版アール・ヌーヴォー)様式の音楽ホールを設計し、5年後、今度は建築家のリヒトが同様にユーゲント・シュティール様式で王子飯店の中楼を設計しました(1912年完成という)。この中楼は1914年以前に習慣的に王子飯店旅館部と言われるようになりました。これが現在の桟橋・王子飯店です。

マンデル社が王子飯店主楼を開業して1年後、ハインリッヒ兄弟とユーゴー・クリプエンドーフ(?)は、王子飯店の西100mのところにあらたなホテルを建てました。1908年、アウグスト・パブストがこのホテルを買い、中央旅館と改称しました。1914年(ドイツ撤退)ののち、日本商人が共同で王子飯店と中央旅館を購入し、3つを合わせてグランドホテルと称しました。

この間、王子飯店には、ドイツのハインリッヒ王子を始め、ドイツ総督、貴族、商人、実業家、銀行家、宣教師、弁護士、自由旅行者、スター、政府役人、技術者が泊まり、音楽ホールは青島最初の映画館そして劇場にもなりました。
(桟橋・王子飯店の解説ポスターより)

このホテルはドイツ人にはプリンツ・ハインリッヒ・ホテルと呼ばれていました。もともとの王子飯店主楼は建て替えられて、泛海名人酒店となり、隣で営業しています。西側には1911年に立てられた西洋レストランがあったそうです。

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私の泊まった部屋はこんな感じです。今年、改装されて準5つ星にリニューアルされたらしく、私にはオーバースペックです。この部屋はたぶん下から2番目のレベル。最低レベルは窓のない部屋なので、さすがにそれはいやということで。裏側の建物なので増築部分ではないでしょうか。

私は日本から楽天トラベルで予約して495元(7500円ほど)でしたが、定価は倍ぐらいです。昨日の煙台の宿は30元だったので、15倍以上の格差。海の見える部屋は2万円以上するようです。

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ホテル内はかなりきれいに改装されています。本館の方ですが。

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例によって、他のホテルも見に行きました。 桟橋・王子飯店のある太平路から1本陸側に入った広西路31号(番地)の「紅房子賓館」が非常に気に入りました。王子飯店の音楽ホールを設計したというクルト・ロートケーゲルによるユーゲント・シュティール様式の建築です。もとは1905年に立てられた医薬商店です。

ちなみに1泊220元(3300円)〜。
次の機会にはここに泊まりたい。

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この曲線、そして窓下の格子がユーゲント・シュティール。

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壁面にはこのような植物模様のタイルがはめ込まれています。チョコレートみたい。

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同じ広西路13号にあるのがユダヤ会館の煉瓦建築です。 ユダヤ人協会、ユダヤ会館、ミレフスキー図書館がここにあり、青島ユダヤ人の活動拠点でした。青島のドイツ租借でドイツのユダヤ人が、ロシア革命でロシアのユダヤ人が大勢やってきて、最も多いときで青島に300人のユダヤ人が暮らしていたそうです。

日本は最初、ユダヤ人と友好的でしたが、第2次大戦でドイツと同盟国になってからは、ユダヤ人を圧迫し、ユダヤ会館、図書館は閉鎖されました。

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ここに「海夢賓舎」という旅館が入っています。 旅館だから安いと思います。

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楽器屋さんも入っていて、なかなか渋い広告を出しています。

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こちらにも建物の雰囲気に合わせて抑えた看板を出しています。

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正面にはベランダの空間があってちょっとだけコロニアル。 面取りした柱がちょっと変わってます。

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ベランダの内部。ちょっと面白い空間。ところどころ装飾が入ります。

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昔ながらの木の階段も残っていました。

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何か特別な部屋だったんでしょうか。入り口がものものしいです。 木彫りの玄関ドアには花の模様も。

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柱頭飾りは石で、中国風の陰陽模様も入っていました。

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味のある色合いです。 いろいろ興味深くて、ついたくさん写真を使ってしまいました。

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おまけみたいですが、ここにも旅館があります。 王子飯店から2軒向こう、太平路と青島路の角です。 建物は1899年から1901年にかけて建てられた旧徳華銀行青島支店です。設計者はシルバ。完成時の写真を見ると外側の窓ははめられておらず、ベランダになっています。 1923年から日本領事館が置かれていたこともあるそうです。 中に順華旅館という旅館があります。もしかしたら庭の中かもしれませんが。

煙台に比べると青島にはクラシックホテルもあり、近代建築には泊まりやすいといえます。

○参考資料
 『青島と山東半島』(旅名人ブックス)、2007年、日経BP企画
 『中国近代建築総覧 青島篇』、1992年、中国建築工業出版社
 竇世強・李明『画説 青島老建築』、2004年、青島出版社
 魯海『青島老別墅』、2006年、青島出版社
 魯海『老街故事』、2003年、青島出版社

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2008年8月11日 (月)

近代公園めぐり:淀川区編

大正時代の公園探訪から始まって、明治期の公園など、折に触れて近代の公園を回ってきましたが、大阪市の公園サーチで、大阪市の公園の開園年が全て分かるということを知り、折々こつこつ回ってみることにしました。

その1回目ということで、大阪市淀川区の木川公園と西町公園を回りました。いずれも、西中島土地区画整理(昭和4年組合設立認可)で計画された公園です。淀川区を代表する公園は十三公園で、以前別の所で取り上げたことがあります。
公園だけでもさびしいので、周りの風景なども入れながら紹介します。

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歩いたのは阪急の十三駅からJR・御堂筋線の新大阪駅までです。
十三からつばめ通りの商店街(十三東本通商店街)を歩いていくと、趣きある木製アーケードにぶつかります。能勢街道が通っていて、このあたりは賑やかだったのでしょう。周辺に路肩の花崗岩切石が残っています。

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阪急京都線の踏切を渡り、右に折れると、古いアパートがありました。2つ並ぶといい雰囲気です。


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この道の突き当たりに木川公園があります。昭和10年にできた公園です。面積は2869㎡。まるでロータリーのようです。


より大きな地図で 近代の公園 を表示
上から見るとロータリーのようになっているのがよく分かります。
古い地図を見ると、最初は道が貫通していたようです。

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木川公園は中央の広場を木々が囲んでいます。

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古い公園だなと思うのは、ストーンサークルのように広場を囲んで自然石が配置されていることです。


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続いて、西町公園に移動しました。昭和13年にでき、昭和50年に改修された公園です。5544㎡の緑濃い公園です。まんじゅう型の滑り台があります。


より大きな地図で 近代の公園 を表示
上から見ると操車場と小学校に挟まれていることが分かります。

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中央部には並木の列があります。このまま小学校の門につながっていれば一体感があるのですが、ずれています。惜しい。

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東側部分は盛り土してあって、テラス状になり、片隅にパーゴラがあります。子供が遊ぶのを木陰で眺める設計なんでしょうね。

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この西町公園は、西村という古い集落に接しています。新大阪駅のすぐ近くに、今もこんな蔵があるのが不思議です。長屋や石畳までありました。

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新大阪駅の跨線橋から振り返ってみました。
青いビルの向こう側が西町公園です。
公園から列車が通るのが見られます。

今回は収穫薄でしたが、懲りずに近代公園めぐりを続けます。

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2008年8月10日 (日)

ブログを分割しました

皆さま

 いつもブログ「日常旅行日記」をご覧いただき、ありがとうございます。
 このたび、ブログを分割し、新ブログ「日常愛好日記」をつくることにしました。
 
 内容的に新奇なことをするわけではなく、まちあるき系以外の、映画、お茶、陶芸などの話題をそちらに持って行きます。どうも映画の話などを同じ場で書きにくい雰囲気があり、分割することにしました。両方をご覧になる一部の方にはご不便をおかけしますが、映画やお茶の話題をご覧になる方はそちらにブックマークを変更していただければと思います。まちあるき系の方はそのままで結構です。

 過去のデータについても既に分割を完了しました。
 ただ、コメントをいただいた記事はそのまま「その他の趣味」カテゴリーとして残しました。

 今後とも両ブログをよろしくお願いいたします。


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2008年8月 9日 (土)

青島・煙台の旅(15)煙台から青島へ

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煙台の奇山所を見た後、四川料理の昼食を食べ、長距離バスターミナルを目指しました。市府街〜華茂街〜南洪街〜西大街と名前は変わりますが、ほぼ一続きの道を歩きました。

最初の写真は、市府街にある旧煙台市政府。門が閉まっていて様子がうかがえませんが、中国の伝統的な役所建築で建てられているそうです。もとは1891年に建てられた広仁堂、1907年に登莱青道台衙門(地方役所)が移り、中華民国時代は煙台特別専員公署(省の出先機関)、煙台市公署が置かれ、1945年に煙台市人民政府になりました。
今は老幹部活動センターになっています。

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季節は5月。道端でサクランボを売っていました。白いサクランボは安くて500gで8元(120円)、濃い赤のサクランボが500gで16元(240円)です。試食させてもらいましたが、色の濃い方が甘みがあります。といっても日本のサクランボのような甘みはないですが。むしろ、白いサクランボが爽やかでおいしい気もします。いろいろ食べさせてもらったので高いのを買いました。生ものなのでお土産にできないのが残念。

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煙台の普通の景色も紹介していきましょう。
華茂街は緑溢れる通り。中国の街路樹はあまり剪定しないので、道を埋めるほど茂っています。

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南洪街は集合住宅が並んでいます。こういう光景が街なかの基調です。

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脇道には露店のパラソルが並んでいました。

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西大街に入ると高い建物が増えます。
韓国語学校の大きな看板が目立ちます。やはり煙台では韓国の存在感が大きいようです。

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マレーシア系の百盛(パークソン)百貨店の前には、時節柄、地震義捐コンサートと義捐セールのステージが置かれていました。

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三輪タクシー。広告が入るようになったことに感心しました。鍵の解錠、交換サービスです。

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煙台長距離バスターミナルに到着しました。

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さっそく切符を買おうとしたのですが、注意書きが。

*5月1日から9月30日まで、北京・青島・天津・上海・瀋陽行きの旅客は身分証を提示して切符を購入・受取・検札すること。

北京オリンピックの治安対策のようです。私は青島行きなので引っかかってしまいました。専用の窓口があり、パスポートを見せて購入します。紅いタスキをした女性が、身分証のチェックを担当しています。
(ぶれててすみません)

煙台から青島までの長距離バス料金は61元(915円)でした。ミニバスは50元でしたので、2割ほど割高です。

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手荷物検査を受けて待合室へ。この大きさの待合室が東西2つあります。

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待合室の外にバスが止まっていて、時間になるとそれぞれの検札口が開き、検札を受けてバスに乗り込みます。私は14時45分発のバスでした。

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バスに乗ってびっくりしたのは、クッキーが1箱配られたこと。運賃は公定なので、そういうサービス競争をしているんでしょうか。飲み物は湯冷ましです。

青島に戻るバスでは、朝早くから歩き回った疲れでほとんど寝ていました。隣は若い男性で、ずっと携帯を操作しています。途中、1ヶ所、長距離バスの休憩所で止まった以外は、空港近くで1回客を降ろしたぐらいで、青島のバスターミナルまで走りきりました。

乗り比べてみると、長距離バスとミニバスはかなり別物で、長距離バスが点と点を結んでいるのに対して、ミニバスは線です。線上ならどこでも降りられますから、値段以外でもミニバスを利用する人も多いのかなと思いました。時間は読めませんが。

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バスは青島の内蒙古路長距離バスターミナルに到着しました。メインである四方長距離バスターミナルは、オリンピックに向けた改修のため、ここに一時移転していました。

土地勘もないので、タクシーでホテルに向かいます。
青島の街路は非常にややこしく、右へ左へ道をたどり、海岸通りにある宿泊先の桟橋・王子飯店に到着しました。メーターは12元なのですが、請求は13元(195円)。何で1元多いのかなと思っていると、メーターの横に、燃油サーチャージとして一律1元を徴収しますというシールが貼ってありました。1元ではあまり足しにならないと思いますが、タクシーまでサーチャージを取るんですね。

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これは翌日の晩に撮った桟橋・王子飯店の写真です。
立派でしょう?

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ホテルのロビー。クラシックホテルですが、改修されたばかりでぴかぴかです。

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夕食は外に食べに出ました。
海の街らしく、海鮮料理の店がたくさんあります。
ここはそのうちの一軒。家庭料理と書いてあります。

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店の前には、アサリ、ハマグリ、カキなどなじみのあるものから、知らない二枚貝や巻き貝まで、いろんな貝が並べてあります。
私は無難にアサリの唐辛子炒め、イカのスープなどいただきました。
でも味はそれほどでも・・・

旅行2日目はここまで。
この日は青島に泊まり、翌日は青島のまちあるきです。

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2008年8月 4日 (月)

かつてのリゾート−大浜公園(堺市)

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堺市の大浜公園は、明治12年(1879年)に開園した、堺市では府営浜寺公園に次いで2番目、市営では初めての公園です。明治36年には第5回内国勧業博覧会の会場となり、堺水族館が設置されたこともあります。そのほか、海水浴場、土産物屋、料理旅館、公会堂、潮湯、歌劇団などが並ぶ戦前のリゾート地でした。しかし、今はそんな印象は全くありません。

大浜公園にリゾート地の面影を見に行ってきました。
ずっと昔は直接乗り入れる市電がありましたが、今は南海本線堺駅から徒歩です。土居川に架かる橋を渡り、旧堺港の南側にあります。
(上の写真は現在の案内図)

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左手に進んで、まず登ったのが蘇鉄山。標高6.84m(笑)。
でも公園以上に由緒があって、安政元年(1854年)にロシア船の天保山沖進入に対応して築かれ、元治元年(1864年)に大改造された南台場(砲台)の一部なんです。南台場の跡は大浜公園の4分の1ぐらいを占めていて、跡地利用といってもいいぐらい。旧堺港の北側には北台場もありました。

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少し南に行くと菖蒲園がありますが、この右手の石垣、上段の方は台場の石垣だそうです。

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蘇鉄山の麓には古い石碑があります。
古い公園には記念碑がつきもの。でもこの記念碑はちょっと変わっていて、「擁護璽(ようごじ)」といい、南海地震の教訓が記されています。嘉永7年(1854年)11月5日に発生した南海地震では、津波により大きな被害が出たのですが、堺は比較的被害が小さかったそうです。神社の境内に逃げた人は助かり、川船に逃げた人は被害に遭ったので、船には逃げないようにという戒めと神様への感謝の記念碑です。翌安政2年(1855年)に立てられました。


(追記)
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大浜公園にもラジオ塔があると聞き、確認してきました。
これがそう?「擁護璽」の近くにあります。昭和8年に建てられたそうですが。
見落としても仕方ない感じです。
本当にこれがラジオ塔なのか自分の中では保留です。
(2009.4.19記)


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また公園に入ってすぐ左の林の中には、「大阪窯業煉瓦工場之跡」の碑(昭和27年再建)が立っています。大阪窯業のあったのは大浜公園のすぐ東側です。

他にも明治天皇の記念碑や南極観測隊のカラフト犬の記念碑などがありますが、省略します。

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蘇鉄山の南側にはひょうたん池、松林の日本庭園があります。

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西側の端まで歩いて振り返ったところ。
背中側が浜辺で、影になっている部分に料理旅館、のち大浜潮湯の関連施設が建ち並び、グラウンドのあたりが遊園地、丸い屋根は相撲場ですが右手からそのあたりに阪堺電車が乗り入れていました。

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昔の低い堤防の跡のようです。
ところどころ登れるように階段がついています。昔は向こうに砂浜があったのでしょうが、埋め立てられて道路です。

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ちょっと面白いものがありました。
両側から階段が付いていて、壁にうねうねした飾りがあります。海に出る主要な入り口だったのではないでしょうか。

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再び入り口に戻って、今度は右手(北)の方へ。
乙姫橋(昔、公園内を車道が通っていたのでそれを越えるための橋)の上から、昔の水族館跡を眺めています。昔を偲ぶものは右手のサル山だけ。

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サル山は昭和12年の改修時のもののようで、そのときの案内図にも載っています。
せっかく残っているのですが、サルが引っ越すというニュースが! 隣にサルの新飼育施設ができるそうです。そうなるとサル山はあっさりつぶされそう。元はというとエサをやる人のせいで、割り切れない気持ちがします。

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水族館跡の周りは昔も今も小高い丘に囲まれています。これも南台場の一部です。登り口に門のようなものが残っていました。

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見晴らしの良い丘の上。ここに休憩所が建っていました。松林が昔の雰囲気を残しています。

○参考リンク
 堺市立図書館デジタル郷土資料展「むかしの堺港と大浜」

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2008年8月 1日 (金)

青島・煙台の旅(14)煙台の旧市街

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煙台山地区を一巡りしたあと、もうひとつ気になっていた「奇山所」を訪ねました。「奇山所」とは、煙台山からまっすぐ南に向かったあたりにある地区です。

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この風変わりな名前の地区は、明の洪武31年(1398年)、倭寇に対する防衛のために建設された城壁都市の一つです。煙台の語源となった烽火台とはセットの関係になります。規模は東西330m、南北が270m。清の順治12年(1644年)に武装解除されるまで、海防の拠点でした。

明朝は倭寇の害を防ぐため、全国の防衛拠点に「衛」(5600人からなり指揮官を置く)、「所」(1120人からなり千戸官を置く)、「百戸所」(112人からなり百戸を置く)を設けました。「奇山所」は正式名称を「奇山守御千戸所」といい、2番目の規模のものということになります。

奇山所は城壁と池に囲まれ、城内には兵士が詰め、兵営や練兵場、食料庫、指揮所などがありました。この城が煙台の街のはじまりです。1644年の武装解除後、兵士は庶民となり、奇山所は普通の街へと変わりました。1950年には城壁も撤去されました。しかし、街区構成は600年前と変わっていないといいます。北京の紫禁城は明の永楽4年(1406年)なので、それより8年前です。

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時間の関係で、奇山所の東西を貫く通りを歩いてみました。

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脇の小路を覗いても、狭い道に高い塀が続き、閉鎖的な印象を受けます。中に入っていくのはためらわれます。

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東西の通りの両側には大きな縁石が並んでいました。赤く立派な石です。それ以外は灰色の石が敷かれています。

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家の形式は中国伝統の四合院で、門の正面には目隠し(悪い気の進入を防ぐという)の「影壁」が立っています。絵画的な静けさがあります。

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地元の花崗岩「毛鼓石」と煉瓦で積まれた壁が地方色を出しています。

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中国らしい対聯と紅い灯籠。

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ここでも犬を見かけました。港町なのに猫は見かけません。

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鏡をのぞき込んだように奥へ奥へと続く通路。見ることのできない生活が隠れています。

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壁のレリーフ。かなり傷みの激しいこの街ですが、かつては高い文化で装飾されていたことをうかがわせます。

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奇山所の北側は、かつての城壁に代わって、巨大広告が壁をなしていました。まさかこんな街が裏に隠れているとは、地元の人でなければ気付かないかもしれません。

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