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2008年7月

2008年7月31日 (木)

青島・煙台の旅(13)煙台の旧繁華街−朝陽街

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煙台の近代建築をいろいろと紹介してきましたが、最後に朝陽街を紹介します。「朝陽」というと「南向き」ということで、煙台山からまっすぐ南に向かう、かつての繁華街です。昨年、きれいに整備され、歩行者街になっています。

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昨年、壁の中から発見されたという「吉卜力街(GIPPERICH Street)」の石板。朝陽街の旧名だそうです。

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朝陽街から少し引っ込んだところにある旧盎斯(オンス)洋行。ドイツ系企業で、1886年に建設された木骨煉瓦造の建物です。煉瓦や屋根が中国風で、入り口や窓が洋風という折衷型です。屋根にぴょこんと出窓があるのがちょっと愛嬌。今は「芝罘画舫」というギャラリーです。

オンス洋行は清の光緒4年(1880)年創業の、煙台でも早期の外国企業かつ近代煙台最大の外国企業の一つでした。主な経営内容は、貿易、保険業、海運などです。貿易では、煙台で初めて西洋薬・医療機器を輸入しました。ドイツのフリードリッヒ、バイエル社の製品を輸入し、主な販売先はフランス・カトリックの開いたフランス医院とアメリカ・プロテスタント長老会派が開いた毓璜頂医院、それに煙台市で西洋薬を扱う薬局でした。19世紀末から1930年代まで、オンス洋行は煙台の西洋薬と医療機器市場を牛耳っていました。日中戦争前には、日本・イギリス・アメリカからも西洋薬が入るようになり、同社の扱う西洋薬は相対的に減少します。

他にドイツからは綿織物を輸入、柞蚕糸の織物、刺繍、レースなど煙台の手工業品、豚の腸皮を輸出していました。特筆すべきことは、オンス洋行は煙台で初めてピーナツの輸出を手がけた外国企業だということです。山東省東部に深く入り込んでピーナツを買い付け、ヨーロッパ各国に輸出し、煙台を世界最大のピーナツ輸出港にしました。

オンス洋行は、煙台で声望のある企業でしたが、1945年の日本降伏後、倒産したそうです。(日本とも関係が深かったのでしょうか)

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朝陽街はかつて繁華街で、とくに西洋薬の薬局が多く集まっていたそうです。オンス洋行があったことと関係があるのかもしれません。どんな商売をしていたのかは分かりませんが、華やかな建物はたくさん残っています。例えば、この建物。灰色煉瓦と赤煉瓦の組み合わせがきれいです。今は土産物店。

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これは阜民街との交差点に立つ建物。昨年、試験的に壁面の復原工事が施されています。灰色基調の壁面に白、小豆色、黒があしらわれてきれいです。現状はネットカフェ。

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2階のバルコニーを拡大してみました。うずまき模様。煙台の街並みで、模様入りの鉄製バルコニーがポイントになっているようで、あちこちで見られました。これがあるとエレガントな感じがします。

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こちらは旧福順徳銀号です。銀号というのは銀行業を兼務する両替商のことです。
簡略ではありますが列柱が並んで銀行っぽい店構えをしていますね。1930年に建てられた鉄筋コンクリート建築で、表には石材が貼られています。施工は徳成営造廠。

福順徳銀号は、1900年(清光緒26年)に梁善堂により創業されました。当初は為替商でした。厳格な商道徳をもち、商売が成功するとともに、預金・貸付業務も始めました。1930年頃が商売のピークで、大連・長春・ハルピンなどにも支店をもち、信用と競争力のある金融機関となりました。

1938年の日本の煙台侵略後は、金融市場に連合準備銀行札が出回るようになり、インフレが起こるようになって金融業は難しくなり、福徳順銀号は各地の支店の営業を停止しました。1943年には株式会社制を実施、経営を近代化し、新制中学や商業専門学校の卒業生を管理人員に採用することで業務を回復し、個人預金を多く集めました。その後、1956年に公私合営化されています。

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ドイツ風の壁を立ち上げた建物。今も医療機器を扱う店が入っています。中央は中国茶荘。

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ちょっとよそ見。これは中国の戦後建築なんでしょうか。壁面が引っ込んだところや、角のカーブなど、日本の戦後建築と共通するものを感じます。

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こちらも中西折衷風の建物。窓の下の植物風の模様が彩りになっています。

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この建物は手前が時計メーカーの旧宝時造鐘廠、奥が旧錦章写真館です。
1934年に徳成営造廠が建設した、木骨煉瓦造の2階建ての建物で、3階はのちの増築です。見た目は飾り気が少なくシンプルです。

宝時造鐘廠(時計工場)は中国初の機械式時計メーカーです。創業者の李東山は1891年、煙台で湯沸かし器の商売を始め、のち東海関の密輸押収品の競売に関わります。1892年には徳順興五金行(金物商)を創業し、金具と外国商品を商いました。1915年にはさらに煙台で同志ガラス工場と宝時造鐘廠を創業しました。宝時造鐘廠については、徳順興五金行で日本の「地球馬」ブランドの置き時計と部品を扱っていたことから、そこに商機を見いだしたものです。

宝時造鐘廠が時計開発に成功したのは、唐志成という人物の功績です。もともと彼は時計とガス灯修理の仕事で徳順興五金行と取引がありました。彼は工場長兼技師として「地球馬」置時計を分解して構造を研究し、李東山は何度も大阪の地球馬時計工場(名古屋の尾張時計株式会社?)に赴きました。李東山は設備購入を名目に、生産現場を視察しては目に焼き付け、工員に飯を食わせて話を聞き出し、鍵となる技術は金で買うなど技術を盗んで唐志成に伝え、1918年に初めて「宝」印の機械時計を製造しました。1920年には「地球馬」時計をモデルにムーブメントの製造に成功します。銅材・鉄板・鋼線・ばねを日本やドイツから輸入する以外は、自社製造するようになりました。また、ヨーロッパの時計をモデルに掛時計の製造も始め、外観は中国風のアレンジを施しました。1928年に始まった日貨排斥・国産奨励の愛国運動に乗り、またコスト削減、品質向上、永久保証により生産・売上を伸ばし、東北市場から日本の「鹿印」、「地球馬」、「地球象」などのブランドを駆逐しました。

1927年には多くの工員が宝時造鐘廠から分かれ、煙台で永康造鐘無限公司(「永」印)を設立しました。永康は南方諸都市や南アジアに販路を求めました。この時点で中国で時計製造をしていたのは煙台だけでした。国民政府のお墨付きを得て、販路は北は東北各省から南はベトナム・ミャンマー・シンガポール・南洋群島まで広がり、宝時・永康両社の年間生産量は3万個に達しました。1931年には宝時造鐘廠は、徳順興五金行と合併、徳順興造鐘工廠となります。この時点が最盛期で工員500余人、年間生産量5万5000個以上。同年、煙台で盛利造鐘工廠(「盛」印)が創業します。

1931年に満州事変が起こり、日本が東北三省を占領すると、徳順興は南方に販路を求めました。1932年には永業造鐘廠(「業」印)、1933年には慈業造鐘廠(「慈」印)が煙台で創業しています。徳順興は業績好調を背景に1934年に朝陽路新工場(この建物)、1935年に金城電影院を相次いで建てます。1936年には全国初の目覚まし時計、14日振り子時計の開発に成功しました。

1937年の盧溝橋事件後は、他の民族工業同様、休業に追い込まれます。1939年に復活したものの、工員は少なく、オンス洋行が煙台を去ったため原料調達にも事欠きました。徳順興の資産は日本傀儡政権に目を付けられ、様々なやり取りの末、1944年、李東山・唐志成は失意のうちに引退、工場を息子の李典章・唐紹祥に譲りました。1945年の日本投降後、唐志成と李典章・唐紹祥は上海に去り、時民鐘廠を創業します。煙台の徳順興は共産党の支持で生産を回復しますが、1946年、李東山は73歳で世を去りました。

宝時−徳順興の中国時計産業に与えた影響は大きく、その出身者が1932年以降、天津、青島、瀋陽、丹東、上海、北京など各地で時計工場を立ち上げました。その始まりが、この朝陽路なのですから、とても意味のある場所です。

なお、錦章写真館は1935年の開業で、コダック社のカメラを扱って好評でした。

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旧宝時造鐘廠の建物のタイルです。皮膚のようなしわのあるタイルが使われています。

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旧宝時造鐘廠の斜め向かい、金城電影院の向かいにある、この立派なマンサード屋根の建物は、1930年に着工、1933年に開業した旧南洋大薬房(薬局)です。これが薬局なの?という感じですが。

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朝陽路の南端、北馬路の交差点に立っているのは、鉄筋コンクリート造の旧金城電影院(映画館)です。最近まで新中国電影院として現役の映画館だったようですが、今はネットカフェになっています。

金城電影院は、当時唯一の外国人経営、外国映画上映の映画館でした。1934年に、上記の徳順興の李東山が投資、徳成営造廠が施工して建設されました。最初は300席だったのが、のち増築して800席にもなっています。3列ソファシート、暖房、扇風機まで備えていました。ハリウッドのパラマウント映画などを上映し、とくに「ターザン」「Rescued by Rover」(名犬もの)が好評だったとか。観客の多くは、外国企業の職員、イギリス・アメリカ居民、アメリカ海軍の避暑中の官兵、税関・銀行職員など。チケットが高くて一般市民には手が届きませんでした。

1938年に日本が煙台を占領するとこの映画館も接収され、中華電影院と名を改め、満州電影株式会社の映画を上映するようになりました。

1945年に煙台が共産党に解放されると「燕台劇団」の劇を公演するようになりますが、1947年の国民党軍の占領で解散、閉鎖。1948年に煙台2度目の解放により「新煙台電影院」と改名されますが、上映のないまま1949年に休業。1950年に映画館職員が自発的に「新光電影院」と改名して復活、さらに「新中国電影院」として1951年に開業してからは近年まで営業が続いていました。・・・という経過をたどるそうです。惜しい。

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旧茂記洋行にも共通する天に伸びゆく摩天楼のようなデザインが特徴的です。今感じる以上に鮮烈な印象だったんでしょうね。

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同じデザインがミニチュアで通用口に繰り返されているのが楽しいです。


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さて、細々と煙台の近代建築を通りごとに紹介してきましたが、今回の旅ではここまで。ただ、紹介したのは中心業務地区だけなので、この他にも住宅や学校、教会などがあります。煙台をお訪ねの際、時間がありましたら、ぜひそちらの地区もご覧ください。

あと2回ぐらい、近代建築以外の煙台の街を紹介します。

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2008年7月27日 (日)

メタセコイアの三宝公園(堺市)

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堺市の三宝公園は昭和16年(1941年)につくられた三角形の公園です。
湾岸部である三宝地区は室戸台風(昭和9年)で大きな被害を受け、三宝公園はその復興事業の一環として整備されました。この三宝公園運動場には総工費4万6887円が投じられ、トラック、テニスコート、バックネット、相撲場などが備えられました。遊具ではブランコ、遊動円木、シーソー、滑り台、砂場があったそうです。

4年前の冬に訪れ、私が近代の公園に興味をもつきっかけになった公園なので、改めて訪ねてみました。アクセスは南海本線の堺駅から北の方に徒歩15分ほどです。

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「三宝公園」の門柱が立つ入り口です。涼しげな木陰をつくるメタセコイア並木の向こうには広場。4年前はここにプールがありました。

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この公園の象徴となっている、メタセコイア並木。メタセコイアは生きた化石として中国で再発見され、1949年に日本に入ってきたので、比較的新しい品種です。

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ひょろ高くシュロが育った小広場。
時の流れを感じさせます。

今回、公園の案内板が書き換えられているのに気付きました。
以前はあった「約100種の熱帯植物の温室」という表現が消えています。4年前も温室はなかったと思います。どこにあったのでしょう。

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野球グランド越しには広々した光景が広がります。頭一つ抜け出ているシュロの木。

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北側の門には荒々しい石積の門がありました。古そう。

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前回は気付かなかったのですが、東側の木立の下に、水路の流れていたような庭園が埋もれているのに気付きました。いくつか石橋も渡されています。小規模ながら住吉公園で見たような設計です。

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庭園には鳩のオブジェもありました。痛々しい・・・

今回4年ぶりに訪ねてみて、公園の変わりように驚きました。

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<2004年2月の写真>

本当はこの遊具が見たかったんです。石を粗く積んだ非常にごつごつした遊具で、戦時中を思わせるようなつくりでしょう? 戦争ごっこをしたような場所ではないでしょうか。戦争遺産かどうかまでは分かりませんが惜しく思います。奥に見えるのがプールなので、プールの撤去と同時に改修されてしまったのでしょう。左奥の休憩所も撤去されていました。

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<2004年2月の写真>

また、以前あった公園事務所も撤去されていました。

手入れがされるのはいいのですが、さびしく感じられた今回の再訪でした。

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青島・煙台の旅(12)煙台・東太平街

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煙台の海岸街の東の端は海で、そこから南に東太平街が伸びています。
その最初にあるのが旧イタリア領事館です。イタリア領事館のできたのは、煙台の領事館では最も遅く、1906年です。鉄筋コンクリート造の2階建て。
ぽこっと半円の車寄せを4本の円柱で支え、明るくメリハリのある建物です。今はレストランになっています。

ここで煙台の領事館についてまとめると、煙台に領事を置いた16か国のうち、イギリス、ドイツ、デンマーク、アメリカ、日本、ロシア、ノルウェー、スウェーデン(あるいはフィンランド)、イタリアが領事館専用の建物を建て、火災で焼失したドイツ以外の8領事館は現存しています。すごいことですね。ドイツはのちに盎斯洋行に領事館を復活させますが、それは残っています。
また、フランス領事館(1901年〜)は、煙台山のカトリック煙台教区主教府(1960年代に解体)内で、オーストラリアハンガリー帝国領事館(1902年〜)は、張裕公司(ワイン製造業)の中で執務を行いました。
オランダはドイツが代理、ベルギーはフランス・日本が代理、フィンランドはノルウェーが代理、朝鮮はフランス・日本が代理、スペインは朝鮮代理領事が代理・・・していたそうです。

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東太平街はまさに改修の真っ最中。
こちらは旧東太平街カフェー(カフェというよりカフェーと言った方が雰囲気に合います)。
1920年代の初めに建てられ、カフェスペースはもちろん、ダンスフロアも備えていました。

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入り口上部の花のような桟や装飾、2階バルコニーの繊細な模様など、華やかな雰囲気が漂っています。海岸近くの一等地ですので、カフェとして復活することを期待したいところです。

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さらに近くには旧東太平街ダンスホール。
1920年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物です。施工は徳成営造廠。壁面は花崗岩で化粧され、アーチ型の窓が並び、2・3階には繊細な金属製フェンスをもつバルコニーが付いています。玄関頂部の家型飾りはちょっと中華風の雰囲気も。
1階はレストラン、2階はダンスホール(ダンスフロアと舞台)、3階は職員宿舎でした。

煙台の賑わいを体現するダンスホールでしたが、その活躍は戦後も続きます。1945年には煙台市政府大礼堂(ホール)となりました。1947年に連合国の米国籍運転手が人力車夫を事故死させた事件では、ここが臨時法廷になり、アメリカ側が罪を認め、治外法権を覆した初めての事件として記憶されています。
1950年に中ソ友好条約が締結されると、同年、煙台市に中ソ友好協会が設立されました。毎週土曜の晩にはここでダンスパーティーが開かれ、煙台に支援に来たソ連の専門家が招かれました。中ソ蜜月時代の一コマです。

なお、東太平街は、太平街とともに妓楼が集中する通りでした。それも外国人向けの最も高級な妓楼が集まっていました。今は寂しい通りですが、往時のカフェーやダンスホールなどから、通りの華やいだ雰囲気を感じることができます。

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さてそこからちょっと裏道を朝陽街の方まで歩いてみました。
裏道に入ると急に中国風の通りが現れます。

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改修中の道で遊ぶ犬たち。なぜか煙台で見かけるのは犬ばかりで、猫は見かけませんでした。

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ここの通りは老電報局街(建徳街)にあたるのかなと思いますが確信がありません。
2階建ての建物が並んでいます。ここの通りも改修中で、工事が終わればかなりきれいになるのではないでしょうか。

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2階部分には華麗な鉄製のバルコニー手すりがあり、昔は華やいだ雰囲気があったことがうかがえます。

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雨戸は青く塗られていて、裏から点描で模様が打ち出されています。
ここも改修に期待したいところです。

朝陽街と東太平街を結ぶこの通りも、昔は人波が絶えなかったのではないでしょうか。

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2008年7月26日 (土)

キャラバシ園(高石市)

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高石市の伽羅橋に異色の郊外住宅地「キャラバシ園」があると知り、見に行きました。
ぷにょさんが「まちかど逍遥」でレポートされていて、かなり重なってしまうのですが。写真はそちらをご覧ください。

キャラバシ園というのは、伽羅橋の素封家・山川家の山川逸郎が大正後期に開発した住宅地です。
キャラバシとカタカナにすると異国の雰囲気ですが、そのイメージ通り、洋風の街づくりでした。

まずは南海高師浜線の伽羅橋駅を起点にします。この線自体、長兄の山川七左衛門が敷設に努め、大正7年に伽羅橋駅まで開通した線だそうです。上の写真のように小さな駅前広場があり、向かいには高石教会があります。こちらも七左衛門が関わっています。

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左に折れて歩いていくと、すぐに大きな洋館が目に入ります。
登録文化財の赤木家住宅(旧飯井定吉邸:大阪の老舗料理店の家)。大正14年に山川逸郎が設計したコテージスタイルの木造2階建て住宅です。平成17年に修理されたばかりなのできれいです。

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門柱なども石を丁寧に貼り込んで作られています。
広々した玄関ポーチが見事だそうですが、塀が高くて窺えません。

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キャラバシ園の跡自体はすぐに分かりました。
三角形の街区がありますが、ここはもと庭園広場で、周りに十数棟の洋風住宅が建ち並んでいたそうです。庭園広場には噴水、植栽、街灯、ベンチ、それに温室があったそうで、モダンな街並みだったようです。残念ながら今はその面影はうかがえません。

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ただ、こちらの和風住宅のセットバックした前庭に、ガーデンシティの精神の名残をみることができるかなと思います。

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多少、古そうな住宅として、北の方にあるこの赤い屋根の住宅があります。

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あるいはこちらの同じく赤屋根の住宅。
当時の写真にみるコテージスタイルの洋風住宅とはかなり違いますが。

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また古そうな工場の建物もありました。重々しい木の扉です。
ちなみに駅前にはカステラの銀装の工場もあります。
ただの住宅地ではない一面も。

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山川逸郎自邸が残っているという情報があり、探し回ってようやく見つけました。駅前を右に行ったところだったので、分かりにくかったのです。
こちらも非常に状態がよく、きれいです。

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山川逸郎は大正6年に自動車研究のために渡米、大正8年に帰国し、最初に建てたのがこの自邸だったそうです(大正9年竣工)。前面に突き刺したように煙突が立っているのが風変わりに思います。

山川逸郎は続いて、キャラバシ園の計画に入り、大正12年に第一期工事が完了しました。
しかし、昭和に入ってからは彼の住宅への関心は薄れ、キャラバシ園も幻となってしまったのが惜しまれます。

○参考資料
 山形正昭「赤木家住宅と「キャラバシ園」について」

○関連ブログ
 「たかいしかいわい」キャラバシ園
 「まちかど逍遥」伽羅橋〜高師浜の洋館 その3

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2008年7月25日 (金)

浜寺昭和町1〜3丁の住宅(堺市)

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浜寺公園を北に抜けた後、浜寺住宅地の中をぶらぶらと歩いてみました。住所でいうと浜寺昭和町1〜3丁です。浜寺住宅地で最初に開発されたのは、浜寺昭和町4〜5丁の濱寺土地(株)経営地(大正7〜10年)で、1〜3丁はそれより後の開発です。

まず最初に遭遇したのは福音交友会・昭和聖書教会です。
郊外住宅地に教会はよく似合います。この教会は1963年にできたようです。

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その隣にはスクラッチタイルの門柱。これは。
教会関係者の住宅のようです。M家住宅。昭和4年(1929年)に錦華紡績社長の佐藤進自邸として建築されたそうです。木造で施工は竹中工務店。敷地は846坪もあるそうです。全体がよく見えません。
この蔵のような鎧戸は何なんでしょう。あるいは母屋の一部を蔵としていたのでしょうか。
(「大阪府の近代化遺産」参照)

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ほとんど白一色に塗られた建物ですが、ハーフティンバー状の浅い突出部が見られます。元は違った色づかいだったのかもしれません。

福音交友会の記録をみると、1949年に「浜寺昭和町一丁の土地・建物購入、宣教師住居並びに浜寺聖書教会堂として使用」と書かれていますので、一時、教会にも使われていたのではないでしょうか。

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その隣も近代建築です。ジグザグの壁面が印象的なこの建物は大正15年(1926年)のS家住宅。施主は元大丸の社長さん。ヴォーリズ風の木造住宅で、施工は竹中工務店。設計者はヴォーリズかも?と記されています(「大阪府の近代化遺産」)。見た目もさることながら、各室にラジエーターが配され、給湯設備もあって、設備が近代的だったようです。

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門構えは比較的シンプルです。

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裏に回ると、物置風の建物も古そうなものが残っていました。淡いブルーの縁取りも、地面から50cmぐらいスクラッチタイルを貼ってあるのも、建物本体と統一感があります。


(ここから追記)
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浜寺昭和町1丁についてはかなり見落としがあったので、まちかど逍遥の「浜寺公園の洋館めぐり」を参考にまとめて見てきました。
上記の建物の並びなのになぜ見落としたんでしょう・・・

まず南海・阪堺電車からも見えるK家住宅(またはO家住宅)。昭和21年(珍しい)の戦後建築です。
頭の大きな屋根にドーマーウィンドウ(屋根窓)。
この写真は裏の南東側からです。

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その東にあるU家住宅。
旧鶴巻邸を連想させる半円の出窓付き住宅です。
北側の窓という窓にステンドグラスがはまっています。
昭和13年の建物。

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実は同じU家住宅の和館部分らしい。
その洋館付き部分(複雑)。

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昭和聖書教会の隣にある、不思議な形をした住宅。
分厚い本を開いたような。
しかもジグザグの平面です。

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昭和聖書教会の斜め向かいにある住宅。
窓の桟が立木のようで面白いです。

(追記ここまで。2009.5.22)

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さて、住宅地を歩いているとあちこちに古い住宅地の風情を感じます。例えば、これは小さな水路の小さな橋だったのでしょうが、ちゃんと橋名の入った親柱があります。

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窓の格子。木製です。窓枠も木製で、落ち着きがあります。

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側溝は両側とも、2列ずつ石材(たぶん花崗岩)を敷いていました。ちょっとしたことですが、味があります。

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木の表皮を活かした渋い木戸。銅製の金具も、モダンデザインの門柱もかっこいいです。ちなみに表の門も同様の木戸2枚でした。建物にも期待するところですが、生垣が完璧で中をうかがえませんでした。

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そして、こちらが差し当たっての目標物だった、近江岸家住宅。設計はヴォーリズ建築事務所、です。見比べると先ほどのヴォーリズ風とヴォーリズではだいぶん違うようにも思います。3本ラインがクール。

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この建物は三角形の敷地に建っていて、その三角部分が庭で柵が低いので、裏からよく眺めることができます。

近江岸家住宅は、昭和10年(1935年)に建てられた木造住宅で、国の登録有形文化財にも指定されています。
浜寺昭和町3丁で、濱寺土地(株)開発地とは隣接しています。

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とくに側面からはじっくりと眺めることができます。
スパニッシュの明るい雰囲気で、表にも裏にもテラスがあり、のんびり庭を眺めていたら別荘気分が満喫できそうです。なんとも美しい。見飽きない。歩き疲れもとれました。

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(追記)後日、3丁を再訪したときに、東の方(内陸側)で古そうな住宅を見かけました。

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凹んだダイヤモンド型の換気口と鷲(か鷹)のエンブレムが光っています。
この鷲?は車輪に乗っているようにも見えるのですが、どこかの社章でしょうか。(2009.5.24)

この浜寺昭和町1〜3丁では、古い住宅は海岸寄り、線路寄りに多いようでした。
後で電車から気付いた住宅もあります。
見落とした住宅もそうですし、いずれ、浜寺昭和町4〜5丁も探訪しに行ってみようと思います。

○関連記事
 「浜寺昭和町5丁の住宅」
 「浜寺昭和町4丁の住宅」

  他の郊外住宅地のインデックスはこちらです。

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2008年7月24日 (木)

青島・煙台の旅(11)煙台・海岸街の東側

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再び煙台山の入り口に戻り、今度は海岸街の東側を歩きます。
朝陽街の北口に、旧克利頓飯店と向かい合っているのは、旧順昌商行です。現在は好望角大酒店というレストラン。残念ながら今のところ詳しい情報が分かりません。一等地ですし、角に正面を向けて派手に見せていますので、それなりに格のある会社なのでしょうが。

クリーム色に小豆色という色づかいで、向かいの克利頓飯店に負けていません。

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その隣にあるのは小さいながら、旧フィンランド領事館です。1930年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物。煙台山に土地を確保できなかった領事館がこのように海岸街などに事務所を構えています。フィンランドは1904年に煙台に代理領事館を置き、ノルウェー領事が代行していましたが、1932年にここに領事館を置きました・・・というとその前は何だったんでしょうね。この建物を旧スウェーデン領事館としている資料も多いのですが、煙台市のプレートがフィンランド領事館なので、そちらを採用しました。

いい意味で素朴ながら、赤い縁取りがおしゃれです。

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その隣も領事館で、旧ノルウェー領事館。
こちらはもっと民族色があります。1904年に建てられた木骨煉瓦造2階建ての建物です。16世紀のヨーロッパ民家建築の様式だそうです。2階の小豆色の家型突出部分が目立っています。独特ですね。

煙台では1864年にノルウェー・スウェーデン領事館が設置され、1906年にノルウェー領事館として独立しました。1909年以前の絵はがきによると、この建物がフランス郵便局であったこともあるようです。1941年にこの建物は日本軍に差し押さえられています。

今は煙台料理のレストラン。2階席があったら入りたい。

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2階部分に注目すると、小窓があって、鳩時計でも仕掛けられてそう。
小窓の周りの色ガラス、窓を幾何学的に分割する桟、軒下の雲形模様などなど、いろいろ細かい見どころがあります。てっぺんから筆のようなものがぶら下がっているのは、日本の明治建築でもあったなあと思ったり。

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ちなみに床下換気口のグリルも覗いてみました。円を多重に重ねたデザインです。あまり国ごとの違いを感じません。

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お隣は由緒不明の建物。山型の飾りが2ヶ所、2階バルコニーも2ヶ所あって、舞台セットのような建物。結構細かく飾ってます。今は貝殻細工などの土産物店2軒に電話屋さん(?)

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2つ飛ばしてこちらは、見た目にはあまり特徴がない建物です。
旧信豊股份有限公司。煉瓦・石造の2階建てです。1910年に建てられました。

信豊股份有限公司は、民族資本の先駆的な貿易会社です。1908年に李明軒・李虹軒兄弟によって創業され、国外に手工芸品や煙台の特産品の輸出を行っていました。煙台の名だたる商人たちが株主として名を連ねていたそうです。1913年までは、主にレースや刺繍、麦わらひもの輸出をしていました。1914年から業務を拡大、ニューヨークやロンドンの商家に向けて、煙台の中国企業としては初めてヘアネットの輸出を始めました。当時4つのヘアネット工場を持ち、梱包・検査要員だけで1000人以上も抱えていたそうです。1916年から24年まで、同社は煙台でラグとじゅうたんの製造工場を経営し、北京・上海・天津などに支社を持つようになりました。

この左の工事囲いの部分には、『中国近代建築総覧・煙台編』掲載の物件があったのが取り壊されたようです。もっとも出版から20年経ってもあまりなくなった建物はありません。

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その向かいにあるのが煙台でも派手な建物といっていい、旧芝罘倶楽部です。英米人の娯楽場所として1865年に創建されました。最初は平屋です。1867年には外国総会がここに置かれました。外国総会は工業製品の輸出入関税の縮小と撤廃、煙台市の都市インフラ建設(例えば防波堤)などに関わりました。

1906年と1914年に増築、1931年にも煙台市キリスト教葡萄山教会の牧師・カーナイト?の設計、徳成営造廠の施工で増築が行われて現在の規模になりました。木骨石造の地上3階・地下1階の建物で、イギリス風の建築です。北側部分(写真では右側)は1階がバーなどの活動室、2・3階が客室等で、娯楽施設にはコリントゲーム室(パチンコに似たゲーム)などがあり、地階にはビリヤード場のほか、中国で初めて(1870年)のボーリング場があったそうです。南側部分はダンスホールでした。倶楽部ではほかにテニス場、海水浴場も備えていたそうです。

芝罘倶楽部は様々な近代外交史の舞台になり、1895年には下関で調印された下関条約がここで交換されました。1941年には日本軍によって差し押さえられたそうです。1945年、煙台に上陸しようとしたアメリカ海軍との交渉もここで行われました。

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海岸街に接する部分が最もモダンなデザインで、ここが1931年の増築部分かなと思います。

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1階にはカーブして広く取られた窓、2階には広いテラス、海を存分に眺められるつくりになっています。

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芝罘倶楽部の目の前はすぐ海です。
非常に開放的なロケーション。

旧芝罘倶楽部は、数年前まで煙台山賓舘一号楼としてホテルに使われていましたが、ホテルが経営破綻したため、今は使われていません。もったいない。今は誰の所有なのかよく分かりませんが、うまく活用してほしいところです。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』ほか

Haianjiee

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2008年7月21日 (月)

青島・煙台の旅(10)煙台の旧金融街-海関街

※ご注意
 このブログには、山東省えんたい国際かいうん公司に関する情報は載っておりません。

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煙台山西路の階段を下ってくると、道はそのまま海関街につながっています。海関は税関ですので、「税関通り」ということ。この南北の道の西側は港湾地区で、海関街は銀行の並ぶ金融街の様相です。

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海関街の北端に建つのは旧アメリカ海軍YMCAです。1866年に煙台駐在のアメリカ領事は、ここに海軍基地を置くべきだと進言し、1874年からは夏になると毎年のように米国アジア艦隊がこの煙台に「避暑」にやってきました。このYMCAは、1921年に米兵の娯楽の場として建てられたものです。

構造は木骨煉瓦構造の2階建て。アーチ型の5つの窓がシンメトリーに配されています。今は埋められていますが、元はベランダだったようです。

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このアメリカ海軍YMCAの前から南を見ると映画のセットのような街並みです。
順に正面写真を紹介していきましょう。

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立派な飾りの円柱が並ぶ建物。最上部にはアールデコ風の天に伸びるような飾りも付いています。

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こちらは角柱で、煉瓦色の壁面と白い庇の対比が印象的。
今はバーになっているこの建物、かつての交通銀行煙台支店です。交通銀行は1908年に北京で設立された半官半民の銀行で、各地に支店を持ちました(今もあります)。煙台支店は1910年に設立され、一般の銀行業務以外に、紙幣の発行権を持ち、関税の収納も行っていたそうです。1932年には貯蓄部を開始し、国際為替業務を発展させ、地域の農工業に貸付を行ってきました。1938年の日本の煙台侵略後に差し押さえられ、一度は再開業しますが、1941年に日本の設立した中国連合準備銀行に吸収されたそうです。

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ピンク地に赤の派手な配色。おもちゃの家のよう。今はカラオケ店です。

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こちらは円柱と角柱の組み合わせ。星のマークは新中国になってからでしょう。
これらも雰囲気的に銀行なのかななどと思うのですが何の建物だったのかは分かりません。

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同じ建物の玄関部分。植物模様の面格子がはまっています。

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次の建物は雰囲気が変わって大型の鉄筋コンクリート2階建て建築です。基壇部分には煙台の花崗岩・毛鼓石が使われています。

この建物は旧士美洋行といって、ロシア系企業が1930年に建てたものです。施工は徳成営造廠。士美洋行は1894年の創業で、初期の主要業務は金融業でした。露清銀行(のちロシア・アジア銀行)の煙台での代行業務を行い、のちに船舶、保険、輸出入なども行うようになりました。煙台でも歴史のある外国企業の一つです。1908年からはシルク、ヘアネット、レース、麦わらひもの輸出も手がけました。士美洋行は創業初期から成功を収めていましたが、シベリア行きのクーリー貿易に従事していた負の側面もあります。創業者のスミス亡き後は、夫人が経営を引き継ぎ、ロシア・フラント社の業務や英国火災・生命保険会社の業務を代行したそうです。しかし、1938年には日本軍によって差し押さえられました。

この士美洋行の南に中国銀行煙台支店があります(写真なし)。1913年の建築と推定される鉄筋コンクリート2階建ての建物です。当時の金融業では最新式だったそうです。中国銀行は旧中国四大官僚銀行の一つ(今もあります)で、前身は1905年に設立された戸部銀行、1908年に大清銀行と改められました。煙台の大清銀行は1911年の辛亥革命で襲撃され業務を停止、1912年には大清銀行が北京で官民合弁の中国銀行に改組され、1913年には煙台でも中国銀行煙台支店が成立しました。中国銀行地名兌換券を発行し、国債を取り扱い、約束手形を発行し、山東省東部各県の各種税金を収納していました。1928年からは国際為替も扱い、金銀や各国通貨も売買しました。中国銀行は業務の近代化を推し進めることで、煙台の金融業で首位の座を獲得しました。
しかし1938年、中国銀行煙台支店も日本軍侵攻により接収されました。

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向かいにあるのはコロニアルな旧滙豊銀行芝罘支店です。
滙豊銀行は1921年に英国香港滙豊銀行(今の香港上海銀行)が設置した支店で、煙台の金融市場をコントロールし、関税・塩税両税の特権を持ち、中国向けの貸付を行っていました。中国の賠償金と鉄道租借金の収納も取り扱っていたそうです。通常の貯金、保険、為替業務も行っていました。
この支店も1941年に日本軍により差し押さえられました。

この滙豊銀行芝罘支店の建物は1920年に徳成営造廠によって建設されたとされます。形式的にはもっと古そうなんですが。木骨煉瓦構造の建物で、前面には煉瓦造のアーチのベランダがあります。

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ベランダの中から眺めるとこんな感じです。
海関街のうち、このあたりまでは滋大路という呼び方もされています。

旧滙豊銀行と道をはさんで南側の角は山東商会会館(写真なし)。
1931年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物です。

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さらに南に下ると旧英国商・ブルンナー・モンド洋行の建物があります。全面に花崗岩・毛鼓石が貼り付けられている渋い建物です。

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入り口はこんな感じ。
ブルンナー・モンド洋行は煙台では1912年に設立され、ソーダや化学肥料、農薬などを扱っていた会社のようです。ブルンナー・モンドは最近まであって、2005年にインドのタタ・ケミカルに買収されました。

このあたりに旧敦和洋行の建物もあるそうなのですが、特定できませんでした。赤瓦の寄せ棟屋根で2階建て、煉瓦・石造の建物らしいのですが。ひょっとしてこのブルンナー・モンドの建物? 敦和洋行は英国企業で、シルク・レース・刺繍・ヘアネット・くずシルクを輸出し、イギリスの布・革靴底など各種雑貨を輸入していたそうです。火災保険と海上保険の代理店もつとめ、1928年以降は麦わらひもの輸出、ブンタール帽の製造輸出も始めました。

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ブルンナー・モンド洋行の向かいにはこの3階建ての建物。
左右が張り出し、海関街の北の方にあった建物と似ています。

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今は昌鑫茶坊というお茶屋さんですが、元々何だったかは不明です。開いていれば、お茶をしたかったのですが。

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そしてこれが旧東海関税務司公署つまり税関です。これ以上近寄れませんでした。
1862年に莱州から登莱青道署 兼 東海関が移ってきたのが、煙台の開港です。1863年に着任したイギリス人の税務司令官ハンナム?は最初、世昌洋行に間借りしますが、1866年にこの建物を建てて移りました。同時に税関埠頭の建設も行っています。1876年の煙台条約はこの場所で調印されました。1937年まではイギリス人が税関の職務を握っていましたが、1938年には日本軍の手に移りました。

木骨煉瓦造の2階建てで、外観は中国風にも見えますが、内部は洋風だそうです。公開していないのが残念です。

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税関の向かいにあるのは旧岩城商行。日本の会社です。
1910年、順泰街の角に建てられた、煉瓦・石造2階建ての建築です。

岩城商行は、唐津出身で32歳の岩城氏が1902年に煙台で興した会社です。岩城氏は石炭の商売を広げるため煙台にやってきました。彼はまず朝陽街に事務所を置き、ほどなく煙台の石炭貿易の70%を押さえるまでになりました。19世紀末に青島が開港すると、岩城商行はただちに青島に業務を広げ、1906年、青島にも岩城商行を設立しました。5年後には青島での商売が煙台を大きく上回るようになったため、本部を青島に移し、日本の若松、神戸、中国の旅順にも支店を設立しました。また海運と船具業にも進出しました。1913年に煙台岩城商行は3600tの瑞穂丸と4600tの催暁丸の2隻の汽船を買い、6隻の汽船を借りて、煙台−香港、煙台−丹東、煙台−日本の航路を開きます。しかし、第一次大戦後、1919年以降の経済状況は経営に大きな打撃を与えました。

1926年、高見社長のもと経営改革が進められ、これ以後、会社は高見家の手に移りました。経営範囲は広く、海運、保険業を包括し、輸入貨物はセメント・石油・銅・金属製品・砂糖・小麦粉・ガラス・ソーダなどで、岩城商行は煙台の輸入貨物の70%以上を扱っていました。
その岩城商行も、1945年、戦争が終結すると資産を差し押さえられてしまいました。

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順泰街で岩城商行の東隣にあるのが恐らく旧政記輪船公司です。
政記輪船公司は中国人の張本政・張本才兄弟によって1905年に設立された会社で、20世紀初頭の華北地区で最大の海運会社です。建物もこのときのものといいます。

張本政は、日露戦争でロシア人から資産を預かったり、日本軍に協力して物資輸送を行うことで元手を手にし、1000tの汽船1隻を丹東・煙台・大連の間で定期運行することから事業をスタートしました。やがて船と航路を増やし、丹東・大連・龍口に支店を置き、1911年には8隻の汽船を保有するに至りました。1914年に第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパ系の船会社が船を引き払った機に乗じて持ち船を増やし、第一次世界大戦が終わる頃には、貨客汽船15隻を持つ華北海運業で首位の会社になっていました。その頃には上海・天津・香港・青島・広州などに支社を設立し、航路も渤海・黄海を出て、日本や東南アジアにまで達しました。

1920年には煙台政記輪船股份有限公司に改組し、さらに飛躍しました。この時期、煙台の電力業・金融業に投資しています。また大連にドックと金物業、船舶修理機械工場を設立、3000t以下の汽船の修理と大型船舶の検査能力を持つようになりました。この頃、3000t以上の大型汽船をシンガポール・サイゴン・ハイフォン(ベトナム)・スマトラ等に航行し、それより小型の船を大連・安東・煙台・威海・青島・龍口・天津・広州・香港の間で運行しました。全て貨物船です。

1923年には会社を大連に移します。汽船21隻を保有。1930年前後には30隻の汽船を全国の沿海で活動させていました。広東沿海では総t数の75%がこの会社の船だったといいます。この時期には貨物の他、客運も手がけるようになり、金融・商工業・不動産・公共事業にも進出しました。

1931年に満州事変が起こり、日本軍の東北侵略が始まると張本政は日本軍の軍事輸送に協力、さらに会社を大きくします。日中戦争でも日本軍の輸送に協力しますが、アメリカの航空機や潜水艦の攻撃で14隻の持ち船を失い、1945年の戦争終結とともに会社は倒産、張本政は漢奸として処刑されました。

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順泰街では街路の改修工事が進行中でした。
この通りの朝陽街との角には、日本の三井洋行も煙台出張所を置いていたといいます。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』
 『旅名人ブックス 青島と山東半島』ほか

Haiguanjie

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青島・煙台の旅(9)煙台山の結婚撮影

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これで煙台山を一回りしたわけですが、触れてなかったことがあります。
入場してすぐ目にとまったのがこのリムジン。一目瞭然、結婚式です。
この日は結婚式日和でした。

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新婦さんを撮影している様子。
中国の結婚では結婚アルバムやビデオの撮影に力が入っていて、結婚式前にスタジオや公園などで撮影をします。日柄が良いのか、この日は少なくとも10組の新郎新婦ご一行が撮影に訪れていました。

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結婚するカップルは煙台山公園にとって大事なお客様になっているらしく、このような撮影セットが園内にいくつも用意されています。洋館群はドラマチックな演出に向いていますので、人気の撮影スポットのようです。愛国教育の基地でありながら、結婚撮影の人気スポットでもあるという妙なことになっています。

園内各所には、白雪姫に出てくるキノコのようなスピーカーが仕込まれ、そこから「煙台山は結婚する二人の甘い生活を祝福します」みたいなメッセージが延々流れていて、婚礼ムード一色なんですよ。
これもまた煙台山の(大きな)一面。

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煙台山を歩きながら街の方から、どーん、どーんと空砲の音が聞こえるので何かイベントでもあるのかなと思っていると、これも結婚式の景気づけの爆竹・花火でした。写真では伝わりませんが、身体に響く相当な大音響です。それも市内のあちこちで。

この写真は街中にある披露宴会場のレストラン。写っている赤いゲートには結婚する二人の名前が書かれています。軍楽隊の演奏もあり、このあと新郎新婦の乗った黒塗りの車が到着して、派手に披露宴が始まりました。

中国の結婚式は街を巻き込んで賑やかです。

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旧堺燈台の内部公開

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堺の大浜公園を見に行ったついでに旧堺燈台にも足を伸ばしました。別に狙って行ったわけではないのですが、運の良いことに海の日記念で7月20日(日)・21日(月)と内部公開をしています。詳しくはこちら

西日で見にくいですが、これが堺燈台です。
遠くにシャープ堺工場のクレーンも見えます。

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昔は海に突き出していた燈台も、今は囲われているようです。
基台部分は波を切るためにやや複雑な形をしています。堺港の整備ともども備前の国(岡山県)の石工・継国真吉によるものだそうです。木造の燈台本体の工事は、堺の大工・大眉佐太郎によるそうです。
旧堺燈台は明治10年(1877年)に建設され、昭和43年まで現役でした。
引退後も堺のシンボルとして大事にされてきましたが、老朽化のため、平成13年度から18年度まで保存修理工事が行われました。
(以上、堺市の紹介による)

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明治のデザインらしく飾りがあって、ゆるいカーブの屋根に軒下の飾りと、鬼瓦の位置に花とも孔雀ともつかないものが乗っかっています。燈台全体が小ぶりなこともあって親しみやすい雰囲気です。荒海の燈台ではないのも理由でしょうか。

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1階部分の床は石の基台そのままです。柱は基台に2m刺さって燈台を支えているそうです。

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壁の構造はこうなっています。クロスして太い筋交いが入っています。その下にかわいらしい上げ下げ窓。窓からの風が気持ちよかったですよ。

白いペンキ塗りで、わざわざ木目が描いてあるそうです。私にはよく分かりませんでした。

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天井を見上げたところ。
この2本の柱は、もともとの柱ですが、傷みが激しいために使われなかった柱です。置いてあるだけ。

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入り口の木戸もおしゃれなものが付いています。

中に入れる機会は少ないので、この機会にどうぞ!

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2008年7月19日 (土)

青島・煙台の旅(8)煙台山の建物−3

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煙台山灯台を降りると、煙台山の東側に回ります。
煙台山の東側はイギリス領事館の建物が占めています。煙台山の3分の2はイギリス領事館の敷地でした。

まずは旧イギリス領事館附属建物。1864年に建てられた煉瓦・石造(屋根組は木造)の平屋で、3面をベランダが取り巻いています。このようなベランダはアジアでは初期の例だそうです。赤屋根、白壁に緑の欄間様の飾りが涼しげ。

鍵の博物館なのですが、開いていませんでした。

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裏側に回ると灰色煉瓦が表に現れた壁で、印象が変わります。もちろんイギリス積み。軒の部分まで煉瓦をせり出しながら積んでいます。窓が縦長で小さいので、煉瓦の印象が強いです。

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床下換気口のグリル。やや垢抜けない印象を受けます。

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同じ敷地に建つ、附属建物の附属建物。こちらはアーチ窓なので、柔らかい印象です。

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こちらは旧イギリス領事館領事官邸です。構造は煉瓦・石造(屋根組は木造)の平屋です。1867年に徳成営造廠により建設されました。この建物も一部ベランダがあります。このベランダは先ほどの建物同様、ジョージア式だそうです(アーチ状になるとビクトリア式)。外壁は漆喰塗りの方が鮮やかな気もします。

イギリス領事館は煙台の領事館第一号です。1861年に領事館を設立して以来、1937年に至るまで、イギリス領事が煙台外国領事団の首席領事を務めていました。それにしては、建物は当初のままであっさりしている気もしますが。イギリス領事館は1941年の日米開戦翌日、日本軍に差し押さえられました。

今は黄金石文化会社の看板がかかっています。

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さらにもう一つの旧イギリス領事館附属建物。19世紀半ばの建物です。木骨煉瓦造の建物。同じくベランダがありますが、屋根を支える柱が2本組の細い木柱なので、太い角柱が並ぶ上記の附属建物よりも風通しが良さそうに見えます。「中国近代建築総覧・煙台編」に掲載の写真はベランダに壁がはめられていますので、その後、原状復帰されたようです。T字型の玄関開口部がちょっと変わった感じ。こんなところで洗濯物を干すのはどうなんでしょう。

この建物では煙台の古写真が展示されていました。

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側面からみると寄せ棟屋根であることが分かります。旧領事館関連の3つの建物はどれも同じような色づかいです。

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煙台山の領事館建築については以上です。
お次は旧煙台連合教会。1875年に建てられた木骨煉瓦造・平屋の建物ですが、早くに壊され、最近再建されたものです。当時の煙台では唯一英語で礼拝が行われていた教会だそうです。上に飛び出ているのは鐘楼。

今は映像上映館に使われています。

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遠景はこんな感じ。けっこう大型の建物です。
窓に黒い縁取りのようなアーチが目立っています。

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最後に、これはよく分からないのですが、煙台山にある大型の建物です。
白地に赤のハーフティンバーの三角破風が印象的です。

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同じ建物を南側から。この建物は公開されていなくて、行政関係の機関が入っています。

煙台山はほとんど純粋な外国人居住区で、中国人の住宅は1軒(それももとはドイツ人の邸宅)だけだったそうです。
煙台山はこれ以外に非公開の建物も多く、貴重な建物園になっています。

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※位置などは正確ではありません

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2008年7月17日 (木)

神社の松

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神社の杜というと、どんな木をイメージしますか?
私の場合は、杉かクスノキです。
浜寺のあたりの神社には松の木がありました。

高師浜駅のすぐ近くにある高石神社。
創建は不明ですが、延喜式内社(927年の「延喜式」に掲載されている神社=その頃には既にあった神社)です。祭神は少彦名神社、天照皇大御神、熊野坐三社で、末社に八幡神社、八坂神社、春日神社、船富神社、彌栄神社です。熊野の神様が祀られるのは紀州街道沿いだからでしょうか。

元々は松林に埋もれるように神社があり、やがて松が刈られて神社の周りだけに松が残ったと想像するのですが。

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同様に伽羅橋に近い羽衣浜神社にも松林があります。
こちらも延喜式内社で、創建は慶雲3年(706年)。祭神は両道入姫皇女(日本武尊の妃)です。古い神社は思いがけない方が祀られていたりして好きです。この神社は大鳥大社の摂社で、井戸之森大明神と呼ばれていたそうです。地形をみると、この神社を巻くように芦田川が流れていて、この神社の下に川から地下水が流れ込み、真水の井戸が湧いていたのではないでしょうか。

かつては知られた浜寺の松も、今はまとまって見ることができるのは浜寺公園ぐらいですが、浜寺の神社も松原に思いを馳せるよすがにはなるのではないでしょうか。


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余談ですが、羽衣浜神社に面白い灯籠がありました。
絵文字のように、すりこぎ、角桶などがレリーフされています。またハートマークの連続模様も。
何を意味しているのか気になります。

(追記)京都の円山公園で、この灯籠が「善導寺型灯籠」と呼ばれる種類のものであることを知りました。京都にある知恩院派の善導寺の灯籠に由来するそうです。火袋に茶道具(茶碗・茶筅、炭斗・ 火箸、茶釜・柄杓、五徳など)が刻まれていること、扇子に由来する可能性のあるハートマークはその特徴です。上の写真の場合、左が茶碗と茶筅、右が炭斗箱と思われます。(2009.1.12記)

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2008年7月14日 (月)

青島・煙台の旅(7)煙台を眺める

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煙台山のさらに中心部へ。
龍王廟が北の海に向かって建っています。煙台山にはこのような中国的な建物もあります。明末に建てられ、荒廃していた廟を1938年に篤志家が再建、それも荒れていたのを1994年に復原したものが現在の廟です。日本と同じく雨乞い、そして風と航海の神様です。

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その隣には「煙台」の名のもとになった烽火台(煙火台)があります。

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烽火台の上からは海がよく見えます。

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さらに煙台灯台があります。
これは灯台の説明板。
煙台の灯台は最初、1905年に建設され、現在のものは清華大学の設計で1988年に竣工した二代目です。高さは49.5m。

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塔の上部はこのようになっています。展望台があるので登ってみます。
ここは別料金で、エレベーターを使うと5元(75円)、徒歩なら3元(45円)でした。ちなみにエレベーターは煙台製です。

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展望台は360度のバルコニーで、非常に眺めが良いです。
さっきの烽火台もこの通り。

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ドイツ領事館跡地。今は営業努力のためか、サーカスの金網が設置されています。この中を小型の自動車で走るものです。ちょっと違和感。

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遠くに目を転じると、煙台山の東に連なる海水浴場が眺められます。手前に帆船のマストを立てたものが見えます。

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青い屋根が旧東海関副税務司令官邸、その向こうが旧アメリカ領事官邸、そのさらに向こうの赤い屋根が公園のチケット売り場で、山に向かう一直線の道が朝陽路です。

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こちらは煙台山の西側の港です。近代に船が出入りしていたのが、この中央手前のあたりです。
煙台の街を一望できます。

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逆に北の海側をみると港湾施設がつらなっています。

煙台の港から近代建築群、煙台の街までを見下ろせるこの展望台。煙台を訪問されたらぜひご体感ください。オープンエアなので爽快です。

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2008年7月13日 (日)

松林の浜寺公園

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伽羅橋を見に行った翌日、今度は浜寺公園を見に行きました。
住吉公園と並び、大阪では一番古い公園です。明治6年の開園で、全国的にみても近代公園第一期生。

実際には南から北へ縦断したのですが、真ん中の南海本線・浜寺公園駅からご案内します。この駅は1907年(明治40年)につくられた明治建築の美しい駅舎として有名です。設計は辰野片岡建築事務所。この力の入りようから、当時の浜寺のステータスの高さが感じられます。

浜寺公園駅は今も現役。ただ、鉄道の高架化が決まっていますので、この視界で見られるのは今のうちです。

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駅からはまっすぐ公園が見通せます。かつては海水浴場に向かう道でした。

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公園の入り口。両側には延々と松林が続いています。
門のように立つモニュメントは、皇太子殿下御成婚記念碑で、昭和34年に毎日新聞社と浜寺スイミングセンターが寄贈したものです。

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そして左を見ると、お寺・・・のような交番。昭和7年(1932年)、平林亀五郎の設計です。鉄筋コンクリート製。「浜寺」を意識したのでしょうか。

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近づくと洋風のデザインです。屋根の警察マークも面白い。
戦前はともかく、この場所だと道案内するのが一番の仕事になりそうです。

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ずどんと海まで続く大通り。このあたりまで来ると、昔は海が見えて、期待が最高になったのではないでしょうか。子どもは一目散に駆けだしたはず。

海水浴場は昭和36年の海岸部埋め立てにより幕を閉じ、昭和38年にオープンした府営浜寺公園プールがその代わりをつとめています。

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公園に入ってすぐ左手に、浜寺公園碑が立っています。
明治33年(1900年)に立てられたもので、浜寺の松が江戸時代に防風林として植林されたことや、公園の由来などが漢文調で記されています。浜寺公園はまず貴重な松林を残すために開設されました。

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そのエピソードを記すのが、この惜松碑です。明治に入り、当時の堺県令はこの松林を伐採し、開墾しようとしていました。しかし、明治6年にこの地を訪れた大久保利通が「音にきく高師の浜のはま松も 世のあだ波はのがれざりけり」と詠み、松林を惜しむ気持ちを県令に伝えたところ、県令は伐採を中止し、太政官にこの地を公園にすることを願い出たのです。この石碑は明治31年(1898年)、大阪府知事・西村捨三によって立てられました。公園に入って右手にあります。

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松林の保護がきっかけでできた公園ですから、この公園の主役は松。
子どもの頃に連れられてきたときは感じませんでしたが、改めて訪ねてみると、松林の広がりに感嘆します。よくこれだけのボリュームで残してくれたものだと思います。

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道幅が広いのは米軍の伐採によるもののようです。どこまでも続くような松林は貴重です。この公園は愛されていて、休日のこの日はたくさんの人々が遊びに来ていました。保護されている松林にもかかわらず、園内でのバーベキューが許可されているのも思い切った判断だと思います。

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一面に広がる松でも、一部特別なものがあって、根元が白いポールで保護されています。この松は、惜松碑の向かいあたりにあり、鳳凰松と名前がついています。

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何か古いものが残っていないかなと思って見ると、目立つのがあちこちにある消火栓です。ヘルメットをかぶったような形が面白い。アメリカのROCK社製です。でも「6」って・・・「ROCK」のしゃれ? でもアメリカだしなあ。

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最初は大事な松林を火災から守るためかと思ったのですが、違いました。上の消火栓の隣に説明板があります。明治時代には松林の間にたくさん(60ともいう)の別荘が建っていて、別荘を火災から守るためだったんだそうです。なんと明治時代の消火栓も。明治41年(1908年)のプレートが残るものというのは発見できませんでした。

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ただ1946年の銘がある消火栓は見つけました。
スマートなものなどいろんなタイプの消火栓があります。
ひょっとして、消火栓マニアには聖地でしょうか。

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ほかに気に入ったのはこのベンチです。とてもさりげないベンチで、松風に吹かれると気持ちよさそうに思えます。

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最後にごく新しいものですが、スパニッシュな色合いのトイレ。いくつかの建物はスパニッシュの雰囲気で建てられています。別荘地の浜寺には似合う気がします。

園内には交通公園やスポーツ施設、飲食店、もちろん遊具など様々な施設があります。でも浜寺公園はなんといっても松林。これを体感するだけでも行く価値があると思います。

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2008年7月12日 (土)

青島・煙台の旅(6)煙台山の建物-2

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さらに煙台山西路を登ります(これは後ろを振り返って)。
両側に長い石塀が続いています。

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石塀(これは石垣ですが)を正面から見るとこんな感じ。日本で見かける積み方とはちょっと違うような気もします。目地を完全に埋めた後、盛り上げた目地をすーっと引いています。細胞のような感じ? 赤っぽい石が目立ちます。

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やがて見えてきた門。スクラッチタイルが貼られています。ん?スクラッチタイル?

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やはり日本の建物でした。旧日本領事館です。本体も鉄筋コンクリートにスクラッチタイル。中国でスクラッチタイルを見るとは。タイル貼りの建築としては煙台で最も早い例だそうです。領事館は最初1901年(明治34年)に建てられたそうですが、1937年に閉館し、1938年(昭和13年)2月に日本が煙台を侵略したときに再開館、旧館をベースに現在の建物が修築されたようです。他国の領事館に比べて、飾り気の少ない建築です。

煙台では1875年に天津副領事の池田寛治氏が煙台の代理領事に就いて以来、領事館は開館、閉館を繰り返しました。

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一見3階建ての建物ですが、斜面を利用して建てられているので、4階建てです。こちらが本当の1階。1階と2階にそれぞれ入り口があり、車寄せがあります。

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1階入り口のドア。中国民間芸術陳列館のはずですが、残念ながら閉まっていて、中には入れませんでした。

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敷地には日本軍兵舎(奥の建物)もあり、これはその附属建物のようです。

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煙台山の北に回り込むとごつごつした石造2階建ての建物があります。
人魚姫がヒント。そう、旧デンマーク領事館です。

1890年に建てられた、ヨーロッパ城塞風の建物です。石材は煙台産の花崗岩で、毛鼓石と呼ばれるものだそうです。

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北側から見るとよく分かります。
爬虫類のウロコのよう。白やピンク、グレーの花崗岩を見慣れているので、茶色い花崗岩というのは随分違って見えます。風化が進んでいるのでしょうか。

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この領事館だけが、領事館として公開されています。デンマークには悪い印象が少ないということなんでしょうね。

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領事の執務室。領事の人形も置いてあります。部屋は飾り気がなく、シンプル。

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2階にあがる階段です。質実な印象を受けます。

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こちらは2階にある食堂。暖炉もあります。

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屋上テラスからは海を眺められます。
このテラスから出入りする船を眺めていたのでしょうね。

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※位置などは正確ではありません

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2008年7月 6日 (日)

青島・煙台の旅(5)煙台山の建物-1

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海岸街の半分を見たあと、建物観光のハイライトともいえる煙台山公園に入りました。煙台山公園は海に張り出した丘で、各国の領事館建築が点在しています。行ったことのある方には、長崎のグラバー園をイメージしていただければ近いと思います。

入場料は大人(身長1.4m以上)30元(約450円)でした。中国の物価水準からして、観光地の入場料は一般的に高めです。ガイドサービスもあり、10人以下なら40元です。英語・韓国語の表記もありますので、英語・韓国語ガイドはあるのではないでしょうか。
公園の開放時間は、夏季は朝6:30から19:30まで。冬季は7:00から17:30です。結構、長い時間開いています。

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まずは目の前にあるこちらの建物から。アメリカ領事館の領事官邸です。20世紀の初めに徳成営造廠により建設された2階建て、東・南2面にベランダ付きのアメリカ式別荘建築です。構造は木骨煉瓦造。

アメリカが煙台に領事館を設立したのは1864年のことですが、当時は宣教師を代理領事として、一切の事務は名誉領事が管理していました。1873年には天津アメリカ領事館の出先となり、1896年にようやく正式の領事館となったようです。

煙台山公園では(全部ではないですが)建物を博物館として開放しています。この建物の場合は、煙台開埠陳列館で、煙台の開港後の歴史を紹介しています。当時の写真なども多く、非常に参考になる展示でした。

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こちらはアメリカ領事館。このデザインは好きです。同じく20世紀初頭に徳成営造廠の建設したアメリカ式別荘建築で、構造も同じく2階建て木骨煉瓦造です。開口部が多くてガラスを多用してますね。煉瓦と漆喰?によるパターンが布地のよう。入り口に一対の獅子がありますが、この入り口は最近付けられたものみたいです。

この建物は切り紙の実演展示館で、要は売店でした。落ち着いて見れないのがちょっと残念です。

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床下の換気口グリルは○の連続模様。あんまり面白みはないです。

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東面にある入り口。こちらの門は洋風で、両脇に尖頭アーチの窓もあります。

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同じく東面の裏口。味わいがあります。

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階段は木製でこんな感じでした。階段の雰囲気はどれも似ています。

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続いてもう一段上にある旧東海関副税務司令官邸へ。税関の副司令官の官邸ですが、その職には長らく外国人が就いていました。中国の税関を外国人が担当するのも変なのですが、当時はそれが一般的だったそうです。

19世紀末に建設された2階建て木骨煉瓦造のベランダ付き英国コロニアル建築です。
京劇芸術館として公開されています。

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東側の1階・2階にベランダが付いています。

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床下換気口。面白みはないです。

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人形のような階段手すりは他の建物も同様ですし、下関のイギリス領事館で見たものも似たような感じでした。

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こちらは東海関の外国人職員アパート。一般の税関職員としても外国人が働いていたようです。木骨煉瓦造で、1864年に徳成営造廠が施工したそうです。徳成営造廠は、外国建築を一手に引き受けていたようですね。

この建物は内部非公開で、アトリエが入っていました。他にいくつもアトリエに活用されている建物があります。

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南側1階には白いベランダがあります。休みの日はここでくつろぐのでしょうか。

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南側の入り口を見上げて。円柱まで煉瓦でつくっているのが面白く思います。

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ここの床下換気口はかなり手抜き(?)

1989年に調査の行われた「中国近代建築総覧・煙台編」では、現況利用が軍関係の招待所などとなっているものが多いので、その間、観光向けに開放が進んだことが分かります。

Yantaishan
※位置などは正確ではありません

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2008年7月 5日 (土)

伽羅橋を見に行く

読めますか? 「きゃらばし」です。
江戸時代の石橋である伽羅橋が今もあると知って見に行ってきました。

元々は紀州街道にかかる橋で、高石市の伽羅橋にあったのですが、今は高砂公園に移設されています。
高砂公園はどこかというと・・・

より大きな地図で 古い橋 を表示
ここです・・・とんでもない所でしょう?
石油化学コンビナートのど真ん中。
公共交通機関はありません。

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ともかく高石駅から歩き始めました。
紀州街道を横断するところで、気になるものを見つけました。
巨大なゲートのようなものです。

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100mばかり離れたところにもあります。
この区間は、本町通りと書かれていて、昔は賑わっていたようです。ゲートに「本町通り商店街」などと書かれていたのではないかと想像されます。今は見る影もありませんが。
ちょうど休まれているおばあさんがおられたので訪ねると、昔はお盆になるとこのあたりに屋台が並び、高石霊園にお参りする人でたいへん賑わったそうです。

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この区間に古そうなお医者さんがありました。

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片山医院という名前です。

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三角屋根の車寄せ、幾何学模様のデザインは大正〜昭和初期風で、地面に近い部分にはスクラッチタイルが貼られていました。片山醫院の書体も古い医者によくあるものです。

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また紀州街道沿いにはこんな洋館付き住宅も。
和館部分がどっしりと風格があります。
門が近代建築風。

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洋館部分です。

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ひろさんが「アトリエのような小住宅」で紹介されている住宅も見かけました。健在です。

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旧海岸に近づくと敷地の大きなお屋敷が目立ちます。
このあたりは高師浜の住宅地になるようです。

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旧堤防らしき場所に古そうな煉瓦塀を発見。

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凹凸のある積み方をしています。
段差ができているので、これは!と思いましたが、期待通り刻印が見られました。

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五本の線が放射状になっているのは、堺煉瓦株式会社製と推定される煉瓦です。中央にイとかホとか文字が入っているようです。しかし、ツキスというのは何でしょう。堺に「月洲」(つきす)という地名があるようですが。月洲に工場があったのでしょうか。

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いよいよ海を渡り、コンビナートに入ります。

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コンビナート内には一部緑道もあって、そこは別世界です。

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あとはひたすらテクノスケープ。

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木陰はあるとはいえ、炎天下を30分ほども歩いてようやく高砂公園に着きました。
これが目的の伽羅橋です。花崗岩でできています。木造だったものを、今在家村(今の羽衣)の吉次郎氏が発起人となって築造費を集め、慶応元年(1865年)に完成させたものだそうです。かつて橋板が香木の伽羅だったことから伽羅橋と呼ばれるようになったそうですが、いくらなんでもそんな贅沢をするものなんでしょうか。

紀州街道の芦田川にかかる橋でしたが、昭和63年に改修工事に伴って移築されました。

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橋桁をのぞき込むと荒々しく加工された部材が使われています。

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架橋当時のものらしき橋名の石柱もありました。

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路面も花崗岩が敷かれています。

それにしても隣のグラウンドで少年野球の練習はしていましたが、それ以外には誰もいません。
車でしか来れないようなところなので当然ですが、せっかくの文化財ですので、浜寺公園に移設するなどできなかったのでしょうか。かつて紀州街道を行き交う人々が渡ったこの橋がひっそり置かれているのはさびしく思えます。

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2008年7月 3日 (木)

青島・煙台の旅(4)煙台・海岸街の西側

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さて、煙台のまち歩きです。
旅館の前の海岸街から歩き始めました。
上の写真が海岸街の西側の現況です。
海岸街は東西わずか143mの通りですが、領事館あり、郵便局あり、洋行(外国企業)ありの(かつては)外国人地区でした。
海岸街には郵便局が5つあって、郵便局通りのようです。

旧ドイツ郵便局と旧茂記洋行は前に紹介しましたので、他の建物について紹介します。

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旧ドイツ郵便局の隣にも同じような建物が建っていて、その間の通路にアーチの門が立っています。

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上部には「法商永興洋行」と書かれています。つまりフランス商人の永興洋行。永興洋行というのはフランス企業では中国最大の貿易商だったようです。
この文字は、2007年の改修工事の際、壁の下から「掘り出された」そうです。

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旧茂記洋行の東隣にあるのが、旧山東煙台一等郵政局。1925年の建築です。煙台は、清政府が1878年に建設した五大郵政機構(北京・天津・上海・牛荘・煙台)所在地の一つで、1887年に煙台郵政総局が設立され、山東省内の郵政分局を統括、1910年には副総局、1913年には一等郵政局に改められ、1937年まで続きました。
今も郵便局として使われています。

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同じく旧山東煙台一等郵政局の正面です。
フランス古典主義の建築で、構造は煉瓦・石造。折り上げられた三角の破風?が変わっています。
はす向かいのドイツ郵便局など他国の郵便局に対抗する意図もあったでしょうか。

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海岸街と朝陽街の交差点、煙台山の正面という一等地にあるのが、旧美孚洋行です。美孚洋行は1899年に設立されたロックフェラーグループのアメリカ企業で、自動車、ディーゼルオイル、灯油などの貿易の他、中国人労働者の海外送り出しも行っていました。1902年には芝罘島東口村に石油貯蔵庫と小さな埠頭を建設し、煙台との間で持ち船が行き来していたそうです。石油貯蔵庫3棟は90万ガロン(3407m3)の容量があり、東北地方まで供給されていました。労働者の送り出しは、約3万5千人に達したといいます。

市場開拓のため、美孚洋行は無料で灯油と街灯を提供し、市民に歓迎されたそうです。こうして、煙台と農村の市場を押さえ、のちに大きな利益を得ました。

1941年12月8日の日米開戦翌日、美孚洋行は日本軍に差し押さえられました。

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建物も設立時の1899年のもので、木骨煉瓦構造の平屋です。
3面に入り口があり、ゆったりした建物に見えます。

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同じく朝陽路の交差点で、美孚洋行の向かいにあるのが、旧克利頓飯店あるいは旧ロシア郵便局です。
プレートによれば1910年建設の木骨煉瓦構造の建物です(鉄筋コンクリートとする文献も)。
克利頓飯店は、ロシア商人が1910年に開業したレストラン兼ホテルで、とくにロシア料理で知られていました。1912年に、袁世凱に招かれた孫文が煙台に立ち寄った際、この2階手前角の部屋に泊まり、煙台で講演も行ったそうです。
克利頓飯店の前はここにロシア郵便局がありました。

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裏側にあたる西側もなかなか装飾が豊富で美しい。
灰色煉瓦に赤煉瓦と赤い木製窓枠の線が映えています。

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旧ドイツ郵便局にもありましたが、窓の下に、灰色煉瓦と赤煉瓦を使った意匠がはめこまれています。表現は洋風でありながら、素材は中国らしい意匠という気がします。

ちなみに煙台の郵便局について触れますと、1876年に日本、1892年にドイツ、1896年にロシア、1898年にフランス、1903年にイギリスが郵便局を開設しています。

Haianjiew

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