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2008年7月31日 (木)

青島・煙台の旅(13)煙台の旧繁華街−朝陽街

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煙台の近代建築をいろいろと紹介してきましたが、最後に朝陽街を紹介します。「朝陽」というと「南向き」ということで、煙台山からまっすぐ南に向かう、かつての繁華街です。昨年、きれいに整備され、歩行者街になっています。

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昨年、壁の中から発見されたという「吉卜力街(GIPPERICH Street)」の石板。朝陽街の旧名だそうです。

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朝陽街から少し引っ込んだところにある旧盎斯(オンス)洋行。ドイツ系企業で、1886年に建設された木骨煉瓦造の建物です。煉瓦や屋根が中国風で、入り口や窓が洋風という折衷型です。屋根にぴょこんと出窓があるのがちょっと愛嬌。今は「芝罘画舫」というギャラリーです。

オンス洋行は清の光緒4年(1880)年創業の、煙台でも早期の外国企業かつ近代煙台最大の外国企業の一つでした。主な経営内容は、貿易、保険業、海運などです。貿易では、煙台で初めて西洋薬・医療機器を輸入しました。ドイツのフリードリッヒ、バイエル社の製品を輸入し、主な販売先はフランス・カトリックの開いたフランス医院とアメリカ・プロテスタント長老会派が開いた毓璜頂医院、それに煙台市で西洋薬を扱う薬局でした。19世紀末から1930年代まで、オンス洋行は煙台の西洋薬と医療機器市場を牛耳っていました。日中戦争前には、日本・イギリス・アメリカからも西洋薬が入るようになり、同社の扱う西洋薬は相対的に減少します。

他にドイツからは綿織物を輸入、柞蚕糸の織物、刺繍、レースなど煙台の手工業品、豚の腸皮を輸出していました。特筆すべきことは、オンス洋行は煙台で初めてピーナツの輸出を手がけた外国企業だということです。山東省東部に深く入り込んでピーナツを買い付け、ヨーロッパ各国に輸出し、煙台を世界最大のピーナツ輸出港にしました。

オンス洋行は、煙台で声望のある企業でしたが、1945年の日本降伏後、倒産したそうです。(日本とも関係が深かったのでしょうか)

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朝陽街はかつて繁華街で、とくに西洋薬の薬局が多く集まっていたそうです。オンス洋行があったことと関係があるのかもしれません。どんな商売をしていたのかは分かりませんが、華やかな建物はたくさん残っています。例えば、この建物。灰色煉瓦と赤煉瓦の組み合わせがきれいです。今は土産物店。

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これは阜民街との交差点に立つ建物。昨年、試験的に壁面の復原工事が施されています。灰色基調の壁面に白、小豆色、黒があしらわれてきれいです。現状はネットカフェ。

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2階のバルコニーを拡大してみました。うずまき模様。煙台の街並みで、模様入りの鉄製バルコニーがポイントになっているようで、あちこちで見られました。これがあるとエレガントな感じがします。

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こちらは旧福順徳銀号です。銀号というのは銀行業を兼務する両替商のことです。
簡略ではありますが列柱が並んで銀行っぽい店構えをしていますね。1930年に建てられた鉄筋コンクリート建築で、表には石材が貼られています。施工は徳成営造廠。

福順徳銀号は、1900年(清光緒26年)に梁善堂により創業されました。当初は為替商でした。厳格な商道徳をもち、商売が成功するとともに、預金・貸付業務も始めました。1930年頃が商売のピークで、大連・長春・ハルピンなどにも支店をもち、信用と競争力のある金融機関となりました。

1938年の日本の煙台侵略後は、金融市場に連合準備銀行札が出回るようになり、インフレが起こるようになって金融業は難しくなり、福徳順銀号は各地の支店の営業を停止しました。1943年には株式会社制を実施、経営を近代化し、新制中学や商業専門学校の卒業生を管理人員に採用することで業務を回復し、個人預金を多く集めました。その後、1956年に公私合営化されています。

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ドイツ風の壁を立ち上げた建物。今も医療機器を扱う店が入っています。中央は中国茶荘。

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ちょっとよそ見。これは中国の戦後建築なんでしょうか。壁面が引っ込んだところや、角のカーブなど、日本の戦後建築と共通するものを感じます。

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こちらも中西折衷風の建物。窓の下の植物風の模様が彩りになっています。

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この建物は手前が時計メーカーの旧宝時造鐘廠、奥が旧錦章写真館です。
1934年に徳成営造廠が建設した、木骨煉瓦造の2階建ての建物で、3階はのちの増築です。見た目は飾り気が少なくシンプルです。

宝時造鐘廠(時計工場)は中国初の機械式時計メーカーです。創業者の李東山は1891年、煙台で湯沸かし器の商売を始め、のち東海関の密輸押収品の競売に関わります。1892年には徳順興五金行(金物商)を創業し、金具と外国商品を商いました。1915年にはさらに煙台で同志ガラス工場と宝時造鐘廠を創業しました。宝時造鐘廠については、徳順興五金行で日本の「地球馬」ブランドの置き時計と部品を扱っていたことから、そこに商機を見いだしたものです。

宝時造鐘廠が時計開発に成功したのは、唐志成という人物の功績です。もともと彼は時計とガス灯修理の仕事で徳順興五金行と取引がありました。彼は工場長兼技師として「地球馬」置時計を分解して構造を研究し、李東山は何度も大阪の地球馬時計工場(名古屋の尾張時計株式会社?)に赴きました。李東山は設備購入を名目に、生産現場を視察しては目に焼き付け、工員に飯を食わせて話を聞き出し、鍵となる技術は金で買うなど技術を盗んで唐志成に伝え、1918年に初めて「宝」印の機械時計を製造しました。1920年には「地球馬」時計をモデルにムーブメントの製造に成功します。銅材・鉄板・鋼線・ばねを日本やドイツから輸入する以外は、自社製造するようになりました。また、ヨーロッパの時計をモデルに掛時計の製造も始め、外観は中国風のアレンジを施しました。1928年に始まった日貨排斥・国産奨励の愛国運動に乗り、またコスト削減、品質向上、永久保証により生産・売上を伸ばし、東北市場から日本の「鹿印」、「地球馬」、「地球象」などのブランドを駆逐しました。

1927年には多くの工員が宝時造鐘廠から分かれ、煙台で永康造鐘無限公司(「永」印)を設立しました。永康は南方諸都市や南アジアに販路を求めました。この時点で中国で時計製造をしていたのは煙台だけでした。国民政府のお墨付きを得て、販路は北は東北各省から南はベトナム・ミャンマー・シンガポール・南洋群島まで広がり、宝時・永康両社の年間生産量は3万個に達しました。1931年には宝時造鐘廠は、徳順興五金行と合併、徳順興造鐘工廠となります。この時点が最盛期で工員500余人、年間生産量5万5000個以上。同年、煙台で盛利造鐘工廠(「盛」印)が創業します。

1931年に満州事変が起こり、日本が東北三省を占領すると、徳順興は南方に販路を求めました。1932年には永業造鐘廠(「業」印)、1933年には慈業造鐘廠(「慈」印)が煙台で創業しています。徳順興は業績好調を背景に1934年に朝陽路新工場(この建物)、1935年に金城電影院を相次いで建てます。1936年には全国初の目覚まし時計、14日振り子時計の開発に成功しました。

1937年の盧溝橋事件後は、他の民族工業同様、休業に追い込まれます。1939年に復活したものの、工員は少なく、オンス洋行が煙台を去ったため原料調達にも事欠きました。徳順興の資産は日本傀儡政権に目を付けられ、様々なやり取りの末、1944年、李東山・唐志成は失意のうちに引退、工場を息子の李典章・唐紹祥に譲りました。1945年の日本投降後、唐志成と李典章・唐紹祥は上海に去り、時民鐘廠を創業します。煙台の徳順興は共産党の支持で生産を回復しますが、1946年、李東山は73歳で世を去りました。

宝時−徳順興の中国時計産業に与えた影響は大きく、その出身者が1932年以降、天津、青島、瀋陽、丹東、上海、北京など各地で時計工場を立ち上げました。その始まりが、この朝陽路なのですから、とても意味のある場所です。

なお、錦章写真館は1935年の開業で、コダック社のカメラを扱って好評でした。

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旧宝時造鐘廠の建物のタイルです。皮膚のようなしわのあるタイルが使われています。

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旧宝時造鐘廠の斜め向かい、金城電影院の向かいにある、この立派なマンサード屋根の建物は、1930年に着工、1933年に開業した旧南洋大薬房(薬局)です。これが薬局なの?という感じですが。

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朝陽路の南端、北馬路の交差点に立っているのは、鉄筋コンクリート造の旧金城電影院(映画館)です。最近まで新中国電影院として現役の映画館だったようですが、今はネットカフェになっています。

金城電影院は、当時唯一の外国人経営、外国映画上映の映画館でした。1934年に、上記の徳順興の李東山が投資、徳成営造廠が施工して建設されました。最初は300席だったのが、のち増築して800席にもなっています。3列ソファシート、暖房、扇風機まで備えていました。ハリウッドのパラマウント映画などを上映し、とくに「ターザン」「Rescued by Rover」(名犬もの)が好評だったとか。観客の多くは、外国企業の職員、イギリス・アメリカ居民、アメリカ海軍の避暑中の官兵、税関・銀行職員など。チケットが高くて一般市民には手が届きませんでした。

1938年に日本が煙台を占領するとこの映画館も接収され、中華電影院と名を改め、満州電影株式会社の映画を上映するようになりました。

1945年に煙台が共産党に解放されると「燕台劇団」の劇を公演するようになりますが、1947年の国民党軍の占領で解散、閉鎖。1948年に煙台2度目の解放により「新煙台電影院」と改名されますが、上映のないまま1949年に休業。1950年に映画館職員が自発的に「新光電影院」と改名して復活、さらに「新中国電影院」として1951年に開業してからは近年まで営業が続いていました。・・・という経過をたどるそうです。惜しい。

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旧茂記洋行にも共通する天に伸びゆく摩天楼のようなデザインが特徴的です。今感じる以上に鮮烈な印象だったんでしょうね。

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同じデザインがミニチュアで通用口に繰り返されているのが楽しいです。


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さて、細々と煙台の近代建築を通りごとに紹介してきましたが、今回の旅ではここまで。ただ、紹介したのは中心業務地区だけなので、この他にも住宅や学校、教会などがあります。煙台をお訪ねの際、時間がありましたら、ぜひそちらの地区もご覧ください。

あと2回ぐらい、近代建築以外の煙台の街を紹介します。

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