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2008年7月21日 (月)

青島・煙台の旅(10)煙台の旧金融街-海関街

※ご注意
 このブログには、山東省えんたい国際かいうん公司に関する情報は載っておりません。

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煙台山西路の階段を下ってくると、道はそのまま海関街につながっています。海関は税関ですので、「税関通り」ということ。この南北の道の西側は港湾地区で、海関街は銀行の並ぶ金融街の様相です。

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海関街の北端に建つのは旧アメリカ海軍YMCAです。1866年に煙台駐在のアメリカ領事は、ここに海軍基地を置くべきだと進言し、1874年からは夏になると毎年のように米国アジア艦隊がこの煙台に「避暑」にやってきました。このYMCAは、1921年に米兵の娯楽の場として建てられたものです。

構造は木骨煉瓦構造の2階建て。アーチ型の5つの窓がシンメトリーに配されています。今は埋められていますが、元はベランダだったようです。

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このアメリカ海軍YMCAの前から南を見ると映画のセットのような街並みです。
順に正面写真を紹介していきましょう。

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立派な飾りの円柱が並ぶ建物。最上部にはアールデコ風の天に伸びるような飾りも付いています。

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こちらは角柱で、煉瓦色の壁面と白い庇の対比が印象的。
今はバーになっているこの建物、かつての交通銀行煙台支店です。交通銀行は1908年に北京で設立された半官半民の銀行で、各地に支店を持ちました(今もあります)。煙台支店は1910年に設立され、一般の銀行業務以外に、紙幣の発行権を持ち、関税の収納も行っていたそうです。1932年には貯蓄部を開始し、国際為替業務を発展させ、地域の農工業に貸付を行ってきました。1938年の日本の煙台侵略後に差し押さえられ、一度は再開業しますが、1941年に日本の設立した中国連合準備銀行に吸収されたそうです。

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ピンク地に赤の派手な配色。おもちゃの家のよう。今はカラオケ店です。

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こちらは円柱と角柱の組み合わせ。星のマークは新中国になってからでしょう。
これらも雰囲気的に銀行なのかななどと思うのですが何の建物だったのかは分かりません。

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同じ建物の玄関部分。植物模様の面格子がはまっています。

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次の建物は雰囲気が変わって大型の鉄筋コンクリート2階建て建築です。基壇部分には煙台の花崗岩・毛鼓石が使われています。

この建物は旧士美洋行といって、ロシア系企業が1930年に建てたものです。施工は徳成営造廠。士美洋行は1894年の創業で、初期の主要業務は金融業でした。露清銀行(のちロシア・アジア銀行)の煙台での代行業務を行い、のちに船舶、保険、輸出入なども行うようになりました。煙台でも歴史のある外国企業の一つです。1908年からはシルク、ヘアネット、レース、麦わらひもの輸出も手がけました。士美洋行は創業初期から成功を収めていましたが、シベリア行きのクーリー貿易に従事していた負の側面もあります。創業者のスミス亡き後は、夫人が経営を引き継ぎ、ロシア・フラント社の業務や英国火災・生命保険会社の業務を代行したそうです。しかし、1938年には日本軍によって差し押さえられました。

この士美洋行の南に中国銀行煙台支店があります(写真なし)。1913年の建築と推定される鉄筋コンクリート2階建ての建物です。当時の金融業では最新式だったそうです。中国銀行は旧中国四大官僚銀行の一つ(今もあります)で、前身は1905年に設立された戸部銀行、1908年に大清銀行と改められました。煙台の大清銀行は1911年の辛亥革命で襲撃され業務を停止、1912年には大清銀行が北京で官民合弁の中国銀行に改組され、1913年には煙台でも中国銀行煙台支店が成立しました。中国銀行地名兌換券を発行し、国債を取り扱い、約束手形を発行し、山東省東部各県の各種税金を収納していました。1928年からは国際為替も扱い、金銀や各国通貨も売買しました。中国銀行は業務の近代化を推し進めることで、煙台の金融業で首位の座を獲得しました。
しかし1938年、中国銀行煙台支店も日本軍侵攻により接収されました。

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向かいにあるのはコロニアルな旧滙豊銀行芝罘支店です。
滙豊銀行は1921年に英国香港滙豊銀行(今の香港上海銀行)が設置した支店で、煙台の金融市場をコントロールし、関税・塩税両税の特権を持ち、中国向けの貸付を行っていました。中国の賠償金と鉄道租借金の収納も取り扱っていたそうです。通常の貯金、保険、為替業務も行っていました。
この支店も1941年に日本軍により差し押さえられました。

この滙豊銀行芝罘支店の建物は1920年に徳成営造廠によって建設されたとされます。形式的にはもっと古そうなんですが。木骨煉瓦構造の建物で、前面には煉瓦造のアーチのベランダがあります。

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ベランダの中から眺めるとこんな感じです。
海関街のうち、このあたりまでは滋大路という呼び方もされています。

旧滙豊銀行と道をはさんで南側の角は山東商会会館(写真なし)。
1931年に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物です。

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さらに南に下ると旧英国商・ブルンナー・モンド洋行の建物があります。全面に花崗岩・毛鼓石が貼り付けられている渋い建物です。

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入り口はこんな感じ。
ブルンナー・モンド洋行は煙台では1912年に設立され、ソーダや化学肥料、農薬などを扱っていた会社のようです。ブルンナー・モンドは最近まであって、2005年にインドのタタ・ケミカルに買収されました。

このあたりに旧敦和洋行の建物もあるそうなのですが、特定できませんでした。赤瓦の寄せ棟屋根で2階建て、煉瓦・石造の建物らしいのですが。ひょっとしてこのブルンナー・モンドの建物? 敦和洋行は英国企業で、シルク・レース・刺繍・ヘアネット・くずシルクを輸出し、イギリスの布・革靴底など各種雑貨を輸入していたそうです。火災保険と海上保険の代理店もつとめ、1928年以降は麦わらひもの輸出、ブンタール帽の製造輸出も始めました。

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ブルンナー・モンド洋行の向かいにはこの3階建ての建物。
左右が張り出し、海関街の北の方にあった建物と似ています。

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今は昌鑫茶坊というお茶屋さんですが、元々何だったかは不明です。開いていれば、お茶をしたかったのですが。

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そしてこれが旧東海関税務司公署つまり税関です。これ以上近寄れませんでした。
1862年に莱州から登莱青道署 兼 東海関が移ってきたのが、煙台の開港です。1863年に着任したイギリス人の税務司令官ハンナム?は最初、世昌洋行に間借りしますが、1866年にこの建物を建てて移りました。同時に税関埠頭の建設も行っています。1876年の煙台条約はこの場所で調印されました。1937年まではイギリス人が税関の職務を握っていましたが、1938年には日本軍の手に移りました。

木骨煉瓦造の2階建てで、外観は中国風にも見えますが、内部は洋風だそうです。公開していないのが残念です。

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税関の向かいにあるのは旧岩城商行。日本の会社です。
1910年、順泰街の角に建てられた、煉瓦・石造2階建ての建築です。

岩城商行は、唐津出身で32歳の岩城氏が1902年に煙台で興した会社です。岩城氏は石炭の商売を広げるため煙台にやってきました。彼はまず朝陽街に事務所を置き、ほどなく煙台の石炭貿易の70%を押さえるまでになりました。19世紀末に青島が開港すると、岩城商行はただちに青島に業務を広げ、1906年、青島にも岩城商行を設立しました。5年後には青島での商売が煙台を大きく上回るようになったため、本部を青島に移し、日本の若松、神戸、中国の旅順にも支店を設立しました。また海運と船具業にも進出しました。1913年に煙台岩城商行は3600tの瑞穂丸と4600tの催暁丸の2隻の汽船を買い、6隻の汽船を借りて、煙台−香港、煙台−丹東、煙台−日本の航路を開きます。しかし、第一次大戦後、1919年以降の経済状況は経営に大きな打撃を与えました。

1926年、高見社長のもと経営改革が進められ、これ以後、会社は高見家の手に移りました。経営範囲は広く、海運、保険業を包括し、輸入貨物はセメント・石油・銅・金属製品・砂糖・小麦粉・ガラス・ソーダなどで、岩城商行は煙台の輸入貨物の70%以上を扱っていました。
その岩城商行も、1945年、戦争が終結すると資産を差し押さえられてしまいました。

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順泰街で岩城商行の東隣にあるのが恐らく旧政記輪船公司です。
政記輪船公司は中国人の張本政・張本才兄弟によって1905年に設立された会社で、20世紀初頭の華北地区で最大の海運会社です。建物もこのときのものといいます。

張本政は、日露戦争でロシア人から資産を預かったり、日本軍に協力して物資輸送を行うことで元手を手にし、1000tの汽船1隻を丹東・煙台・大連の間で定期運行することから事業をスタートしました。やがて船と航路を増やし、丹東・大連・龍口に支店を置き、1911年には8隻の汽船を保有するに至りました。1914年に第一次世界大戦が勃発するとヨーロッパ系の船会社が船を引き払った機に乗じて持ち船を増やし、第一次世界大戦が終わる頃には、貨客汽船15隻を持つ華北海運業で首位の会社になっていました。その頃には上海・天津・香港・青島・広州などに支社を設立し、航路も渤海・黄海を出て、日本や東南アジアにまで達しました。

1920年には煙台政記輪船股份有限公司に改組し、さらに飛躍しました。この時期、煙台の電力業・金融業に投資しています。また大連にドックと金物業、船舶修理機械工場を設立、3000t以下の汽船の修理と大型船舶の検査能力を持つようになりました。この頃、3000t以上の大型汽船をシンガポール・サイゴン・ハイフォン(ベトナム)・スマトラ等に航行し、それより小型の船を大連・安東・煙台・威海・青島・龍口・天津・広州・香港の間で運行しました。全て貨物船です。

1923年には会社を大連に移します。汽船21隻を保有。1930年前後には30隻の汽船を全国の沿海で活動させていました。広東沿海では総t数の75%がこの会社の船だったといいます。この時期には貨物の他、客運も手がけるようになり、金融・商工業・不動産・公共事業にも進出しました。

1931年に満州事変が起こり、日本軍の東北侵略が始まると張本政は日本軍の軍事輸送に協力、さらに会社を大きくします。日中戦争でも日本軍の輸送に協力しますが、アメリカの航空機や潜水艦の攻撃で14隻の持ち船を失い、1945年の戦争終結とともに会社は倒産、張本政は漢奸として処刑されました。

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順泰街では街路の改修工事が進行中でした。
この通りの朝陽街との角には、日本の三井洋行も煙台出張所を置いていたといいます。

○参考文献
 「同行網 感受煙台・煙台近代建築掠影」
 「山東省情網」
 「煙台市情網」
 「走進芝罘」
 『中国近代建築総覧・煙台編』
 『旅名人ブックス 青島と山東半島』ほか

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コメント

こんばんは。
想像を絶する景色(の写真)が延々と続き、度肝を抜かれています。でも、理解するためには歴史の勉強をしなくちゃいけませんね。

投稿: ひろ009 | 2008年7月22日 (火) 22:06

ひろさん、こんばんは。
実のところ、旅行中はとにかく気になる建物をあれもこれも撮って、後で照合して「そうだったのか」と思っているんですけどね。現場ではここに書いてあることには気付いてないという。やはり歴史の知識は大事です。

投稿: びんみん | 2008年7月23日 (水) 00:54

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