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2008年6月

2008年6月29日 (日)

青島・煙台の旅(3)煙台の近代と建築

Modernbohai

Oldyantai

煙台のまち歩きの前に、煙台の近代と建築について、簡単にまとめておきます。

煙台はもと“芝罘”と呼ばれていました。明朝の1398年、和冦を防ぐため、「奇山守御千戸所」と呼ばれる城壁都市が築かれました。これが煙台の都市の核になっています。城壁はありませんが、今もその区画は「奇山所」という名で残っています。ちなみにこの時、和冦の来襲を知らせる、のろし台(狼煙台)も築かれ、「煙台」の由来となりました。

近代に入り、第二次アヘン戦争(アロー戦争)に敗れた清は、咸豊8年(1858年)にイギリス、フランスとの間で天津条約を結び、登州(蓬莱)を通商港として開放させられました。咸豊12年(1862年)、条約に従って登州を実地検分したイギリス領事は、登州より煙台の方が条件が良いと判断、開港地を煙台に変更します。ここから煙台の近代化が始まりました。1860年の英仏軍による北京侵攻の際、煙台山は租界開設をもくろむフランス軍が占拠しましたが、イギリスの猛反発で1866年にフランス軍は撤退しました。

これより外国の政府役人、商人、宣教師らが次々にやってきて煙台で様々な活動を展開し、土地を購入または永久租借する形で教会、学校、洋行、領事館などを建て始めました。計17の国が領事館を開いたといいます。1861年からの60年間に大量の洋風建築が建設されました。とくに1880年から1900年にかけては北方の他の2つの貿易港ー天津と牛荘(営口)ーよりも大きな貿易額を誇っていたといいます。

しかし、煙台は正式の租界地ではありませんでした。

1897年に芝罘条約が結ばれ、煙台はイギリスの条約港になります。そこでイギリス主導で共同租界設立の動きがおこるのですが、1898年にドイツが青島、イギリスが威海衛を租借した結果、山東半島にこれ以上イギリス勢力が増えることを望まないドイツの反対で共同租界の計画は宙に浮きました。

1899年には日本、イギリス、アメリカが共同租界設立の働きかけを始めます。しかし、今度は1898年に対岸の大連を租借していたロシアが反対、そうこうするうち1904年の日露戦争に突入します。

1910年には煙台に住む外国人と中国人有力者による万国委員会が設立されました。彼らは煙台市街地を「芝罘第一区」と命名、居住者への課税を財源に行政を行うという珍しい統治形態が出現しました。

その後、1917年にイギリスが再び共同租界の設置を提案しますが、今度は日本やアメリカが反対します。日本は1914年に青島を占領、1915年には対華二十一カ条の要求を提出して、山東省のドイツ権益を引き継ごうとしていました。一方、アメリカは煙台をアメリカ海軍アジア艦隊の駐留港にしようとしていました。

結局、各国の思惑の綱引きで、煙台は租界地にならなかったといえます。
1930年に万国委員会は市の行政権を市政府に返還しました。

さて、このようにして成立した、煙台の建物の分布について見てみましょう。
外国人による建築の分布はおよそ、次のようになっていました。
(1)領事館 
 煙台山と朝陽街に多く建てられました。
 とくに煙台山は領事館地区といってもいいほどです。
(2)外国洋行
 海岸街、滋大路(海関街)、朝陽街、大馬路などに多く建てられました。
(3)学校・医院
 毓璜頂と海岸路付近に建てられました。
(4)外国人住宅・別荘
 大馬路・二馬路の東端、東山一帯に多く建てられました。
(5)教会
 分布が広く、煙台山・東山・西山・大馬路・毓璜頂などどこにもありました。
(6)郵便・電話局
 外国の郵便・電話局は海岸街に建てられました。
(7)国際商業組織
 芝罘クラブが煙台山の下に建てられました。

19世紀、煙台の陸上輸送は家畜の牽く車に頼っていました。
1898年に青島と膠州湾がドイツ租借地となり、青島の都市建設が始まって、1904年に膠済鉄道が開通すると、鉄道輸送の安価なコストと時間短縮により、物資は青島を経由するようになり、1910年頃には煙台の繁栄はすっかり青島に奪われてしまいました。結果として、煙台には開港初期の建築が残されたとも言えます。

そして現在。
2007年5月から9月にかけて、煙台山下の朝陽街、海岸街、海関街では、街路を敷き直し、建物を復原する改修工事が行われました。2008年5月から10月にかけては、さらに朝陽街以東の会英街、建徳街、招徳街、東太平街、西太平街の5街路・沿道建物の改修を行っています。地元政府は積極的に地区を保存・活用していく意向のようです。

煙台山一帯の近代建築群は、観光資源であり、愛国教育の拠点でもあります。
近代建築は中国の苦い近代史の証人でもあり、一方では地域の先進性の象徴でもあり、近代建築を眺める視線も複雑なものとならざるを得ないようです。日本では屈託なく近代建築を眺める私ですが、中国の近代建築には堂々と好きですと言えない居心地の悪さを若干感じながら、よく残されている近代建築を眺めていました。

次回から街の建物を見ていきます。

○参考資料
 今回の記事は多く「旅名人ブックス97 青島と山東半島」(日経BP社)を参照しました。
 他に「中国近代建築総覧 煙台編」などを参考にしています。
 最近の動きについては、煙台市HPと水母網のニュースを参照しました。

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2008年6月26日 (木)

生國魂神社の境内にて

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生國魂神社といえば、大阪でも有名な神社の一つ。でも私は初めての訪問でした。
社伝によれば、神武天皇が九州から難波津に着いた際に、今の大阪城付近に生島大神・足島大神を祀ったのが創始とされているそうです。のち大物主大神も祀られました。生島・足島大神は国土・大地の守護神で、大物主大神はダイコクさんです。
秀吉の大坂城築城に際して、天正13年(1585年)に現在地に遷座しました。

現在の拝殿前は広々と開放的です。

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神社は(とくに古いのは)けっこう好きなのですが、その中でも摂社・末社をはじめ、境内にあるいろいろなものを見て回るのが好きです。変かも知れないけど。
まず境内図をチェック。全体の配置と面白そうなものがないか確認します。
そしてまずは拝殿にお参り。「お邪魔します。ちょっと境内を見せてください」と願いごとするという・・・

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大きな神社ですので、摂社は大きめで、かつそれぞれにユニークです。
右から、浄瑠璃神社、家造祖神社(土木建築の守護神・手置帆負神・彦狭知神を祀る)、鞴〈ふいご〉神社(製鉄・製鋼・鍛冶の守護神、カマド神)、城方向〈きたむき〉八幡宮(大阪城鬼門の守護神でしたが今は?)です。城方向八幡宮は、生玉公園ができるときに移されてきています。

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精鎮社。表参道蓮池に祀られていた弁財天社で、生玉公園ができるときに移されたようです。池になっていて、鯉が泳いでいるのが面白い。
余談ですが、摂社・末社の中でも弁財天社、厳島神社が好きです。というのは、島をかたどって周囲に池を巡らせたり、堀で囲んだりしていることがよくあるからです。その造形を見るのが楽しみです。

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こんな碑もあります。
八雲琴の碑といって、愛媛の人が、文政年間出雲大社に参籠し、神託を得て二弦の八雲琴を完成させたそうです。芸能に関わりが深いですね。

表からみると、丸い穴が開いてますでしょう。

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裏から見ると月の形。
昼は日の形で、夜になると月の形になるという粋な仕掛けかと思います。

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また、面白い奉納玉垣がありました。
「世界一週記念 奉納英貨十五パウンド 長谷為五郎」と書かれています。側面には大正13年の日付。ポンドで奉納してしまうあたり、得意げな顔が浮かびます。

このほかにも様々なモニュメントがあり、さすがに多くの人々の崇敬を集めて、見どころの多い神社です。

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2008年6月15日 (日)

戦争遺跡の公園「生玉公園」

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仕事帰りに、大阪市天王寺区の生玉公園に寄りました(最寄り駅は谷町九丁目)。
生国魂神社の南〜南西にある公園で、着工は昭和15年(1940年)5月、開園は昭和17年(1942年)5月です。公園は上町台地の上と斜面を利用していて、上町台地の下にも入り口があります。上の写真がその入り口。ただ、この道は後から付けられたものかもしれません。

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階段を上がると、コンクリートの壁が見えます。

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ただのコンクリート擁壁に見えるこれ、実は防空壕の入り口を塞いだものです。
大阪府・大阪市が設置している説明板によると、「都市防空壕」として大阪市により設置されたそうです。しかも当時一般では入手できなかった資材を利用して建設された特別防空壕で、戦争末期には陸軍の通信施設として使われ、いよいよの時には司令部をここに置くつもりだったといわれます。また建設には朝鮮人が徴用されました。

防空壕の中はうかがえませんが、内部は2階建てで、アーチ状の無筋コンクリート製、本体は幅約9m×高さ約6.5m×長さ約24mで、1階部分の床面積203m2、2階部分は現存せず、と解説されています。

なるほど、戦時中に公園を作るには訳があるわけです。

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途中遊歩道があるのですが、林間のテント村になっていましたので、写真は遠慮します。台地上に上がるとテラスになっています。

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その一角にこのコンクリート製の煙突(通気塔)が立っています。これも防空壕の施設の一部らしいです。

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公園は道路を挟んで東西に分かれています。公園の樹木に覆われています。

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公園の中で、もう一つ記念物を見つけました。

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ただの自然石に見えますよね?
よく見ると字が刻まれています。
「紀元二千六百年
  簡易保険
  郵便年金
 報國運動記念之杜」
つまり、紀元2600年=昭和15年の植樹記念碑です。

そんなに手間をかけたくなかったのか。

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この日が曇り空だったこともありますが、鬱蒼とした森になっています。

この公園ができるまで、ここは何だったんだろうと思って地図を確認してみると、大正13年の大阪市パノラマ地図では、お寺や神社が並んでいます。昭和16年に至るまで神社(北向八幡宮)などが記載されていますので、寺社を移転させて公園にしたのでしょう。北向八幡宮は、今は城方向(きたむき)八幡宮として、生国魂神社境内に祀られています。

公園の森は普通、気持ちの良いものですが、戦争遺跡に加えて、テント群、ホテルの廃墟があり、やや陰鬱な気持ちで公園を後にしました。

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2008年6月11日 (水)

青島・煙台の旅(2)煙台の近代建築に泊まる

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煙台で迎える朝。
ベッドからすぐ通り(海岸街)を眺めることができます。

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外に出てみて、びっくり。これが今回泊まった便民角旅館です。こんなところに泊まっていたのかと。
昨夜は暗くてよく分からなかったのです。

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市の文化財のプレートまではまっていました。
旧ドイツ郵便局とのことです。

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主だった建築物には、文化財のプレートと簡単な説明板がペアではめ込まれています。このドイツ郵便局の場合は、木造+煉瓦造で、1892年に郵便局が置かれ、第一次大戦後の1917年に撤退したそうです。『中国近代建築総覧・煙台編』によれば、施工は徳成営造廠。

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上部の山型飾り。「Kaiserlich Deutsches Post Amt」と書かれています。ドイツ郵便局とでも書かれているのでしょうか。ドイツ語は全く分かりません。
赤煉瓦と中国風の灰色煉瓦を組み合わせて使っています。

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壁の飾りを、赤煉瓦と灰色煉瓦の組み合わせで入れています。

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ちょっと中も覗いてみました。写真がよくなくてすみません。改修工事中のようでしたが、床も階段も木のものが使われていました。昔のままなのでしょう。

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でも泊まるなら向かいの海鮮暇日酒店の方が良いかもしれません。外から見た感じ、部屋をそのまま使ってそうですので。標準で1泊58元となっています。海鮮レストランの兼営です。

この建物は、かつてイギリスの茂記洋行のオフィスでした。1934年に建てられた鉄筋コンクリート?建築で、施工は徳成営造廠です。

茂記洋行の前身は1864年(清同治3年)創業の商社「和記洋行」で、煙台が開港して最も早く進出した外国企業の一つだそうです。業務範囲は、海運、陸運、綿糸・手工芸品・ピーナツなど特産品の輸出などで、特に海運(外輪船)に力があったようです。その繁栄は太平洋戦争の日本軍の進入まで続きました。(水母ネット記事より)

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1階から3階まで突き抜けている角柱が印象的です。対して、水平方向には薄い庇が巡らされています。ツタの絡まり具合もいい感じ。

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次に来たときのために、他のホテルも見ておきました。
ほかにめぼしいところでは、東太平街の楓合賓館があります。周辺の道路を整備中ですが、終わればきれいになるのではないでしょうか。

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順泰街から少し入った良貴軒旅館。町家といってもいいでしょうか。

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順泰街の福源招待所。さすがにここまで来ると・・・
でも案外、古い部屋のままではないかと期待(笑)。

あくまで近代建築に泊まるならということですので、ちゃんとしたホテルは金海湾酒店、黄金大酒店、太平洋大酒店はじめ、いろいろあります。

回ってみて思うのは、外国勢力が入ってきて初期の建築ですので、2階建て程度の建物が多く、規模が小さいため、ホテルに活用しても「旅館」レベルにしかならないということではないかと思います。
そこが大型のクラシックホテルがある上海とは違うところです。

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2008年6月 9日 (月)

青島・煙台の旅(1)青島から煙台へ

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遅くなりましたが、青島・煙台の旅行記を紹介します。
今回は普通の旅行記っぽく、ほぼ時系列で書いていこうと思います。
ぼちぼちと続けますので、よろしくお付き合いください。

さて、今回の旅行はスターアライアンスのマイルを使った旅行でした。大阪から直行便があって行ったことのない街ということで迷わず中国・山東省の青島に決定。ついでに同じく山東省の煙台もプラスしました。中国へは2005年秋の上海以来、3年ぶりです。

Bohaiwan

飛行機は関空を10:40に出発。2時間半ほどで青島の柳亭空港に着きます。上空から見ていると住宅の赤い屋根と工場の青い屋根が続いています。灰色の屋根が目立つ中国では珍しい明るさがあります。

青島の空港はすいていました。
地方空港は楽です。

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ただ、残念なのは街から遠いこと。
今日は煙台に行くのが目的なので青島の街に用事があるわけではありません。あわよくば煙台に直接行くバスがあれば・・・と思ったのですが、市内に出るリムジンバスは3系統、1時間に各1本という状況で、市内に出るのでやっとです。国内線ターミナル前にある切符売り場で、旧市街方面行きの機場2線(空港2号線)で「四方」の長距離バスターミナルまでのチケットを買いました。15元(230円)の均一料金です。(ちなみに今回の旅行期間中のレートは1元=15.37円でした。以降は分かりやすく1元=15円で換算します)

発車まで時間があるので、両替をしたり、ヨーグルトジュースを飲んだり。
国内線ターミナルは閑散として薄暗く、ぼんやりした空気が漂っています。

数人を乗せてバスは出発しました。

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空港から市街に向かう道で目立つのはハングルの文字。後で地図を見ると、この道沿いは韓国美食街と書かれていました。山東省は韓国と近く、上海あたりと違い、その存在感はかなりのものです。

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走り出して10分ほどで、長距離バス北ターミナル(青島汽車北站)を通過しました。新しくて立派なターミナルです(後でまたこの建物を見ようとは・・・)。

道々、運転手さんや隣の人とどこまで行くのかという話になり、「煙台に行くので、四方のバスターミナルまで」という話をすると、「煙台なら北ターミナルで降りれば良かったのに」だって・・・早く教えて・・・。

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気を持ち直して、40分ほども乗って四方長距離バスターミナルで降りたのですが、これは・・・

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なんと無情にもバスターミナルは8月までの改修中。
別のターミナルに行けと。ショック。下の方、ちぎれてるし・・・
青島だからと北京オリンピックを甘く見ていました。青島はオリンピックのヨット競技会場です。それだけといえばそれだけなんですけど、そのために大改修を行っています。
空港のインフォメーションで相談しておけば良かった・・・

しかしそこは商売がうまいというのか、ミニバス(中巴)の客引きのおじさんがいて、すかさず声をかけてきます。私は向こうからの誘いにはあまり乗らない方なのですが、すぐ携帯で連絡をして、「煙台まで60元(900円)、15分後に来る」というので話に乗ることにしました。60元というのは聞いている値段とあまり変わりません。

ミニバスを待つ間に夕刊紙(斉魯晩報)を買いました。0.3元(5円)だったかな。新聞は相変わらず安いです。トップ記事は、四川の震災の怪我人が青島に到着。各地で被災者を受け入れているようです。

ちなみに下の方に破れてない通告があるのに気付いたので、ご参考まで記しておきます。
改修期間中は、青島東站(東ターミナル)と青島站海泊河発車場からの発車に変更になるそうです。
青島東站は嶗山区李山東路33号にあり、607番のバスなどで行けます。青島站海泊河発車場というのは、四方路のバスターミナルから徒歩10分、内蒙古路の長距離バスターミナルの向かいです。

ほぼ15分後、ぼろいミニバスが到着しました。
でも客は誰も乗っていません。運転手のやや強面のおじさんと切符売りの気の強そうなおばさんだけ。嫌な予感。というのは、人が集まるまで引き回される可能性大だからです。
バス代の60元を払うと、さっきのおじさんに10元を払っていました。50元だったのか。分かりやすい価格設定。まあ、呼んでもらったので仕方ありません。

案の定、バスは客を探してゆるゆる走り、自動車修理店に寄ってみたり、お金をもらえばこっちのものといわんばかり。どういうシステムなのか、公共のバスターミナルにも入っていきますし、先ほどの北ターミナルにも入って、許可証を持って行ったり。携帯電話もあちこちかけています。しかし、客だけは拾えず、時間ばかりが過ぎます。多くのミニバスが重慶路を走るようで、バス待ちの客はあちこちに立っていますが、みな煙台行きの客ではないようです。1時間ほどもかけて北ターミナルを過ぎたあたりで初めて2人の客を拾い、ここから調子付きました。席が埋まるほどにスピードも上がります。空港近くにバイパスの入り口があるのですが、ここでも何人もの人がバス待ちをしていました。空港からならここで乗る手もあるようです。

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ようやく市街地を抜け、延々と続くプラタナス?並木の間を駆けてゆきます。といっても、客を見つけると減速して交渉が始まるのですが。おばさん、おばあさん、若い男、子ども、そして大きな荷物。途中で預かった荷物を、別の車に受け渡したり、融通自在です。青島市内から煙台までは50元が相場のようです。一切値引きなしで、そのあたりはきっちりしていました。
料金所を裏道からかいくぐるのには、私までどきどき。

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煙台までは180km余り。山東半島を横断します。高い山はないので、ゆるやかな丘ののぼり、おりを繰り返します。並木はどこまでも続き、脇道についても並木が伸びています。このあたりの徹底ぶりはみごとです。

時々、農産物市場があり、道路脇に梨の販売があり、このあたりが農業地帯、果樹地帯であることが分かります。果樹の植えられた段々畑もありました。途中、莱西、莱陽といった少し大きな町を過ぎ、広義の煙台市に入ると、サクランボ(大桜桃)の販売が目立つようになります。ちょうどサクランボの季節です。

運賃は、中間点の莱西あたりからがくんと安くなるようです。

黄務の市場で切符売りのおばさんは降り、乗客も一人二人と降りていって、夕暮れの煙台の街に入りました。

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ミニバスの終点は、フェリーターミナル(煙台港客運站)の前でした。
煙台は山東半島北部の港町で、大連や韓国の仁川にフェリーが出ています。
既に夜の7時。2時半に乗ったので、3時間で着くところを4時間半もかかってしまいました。いろいろ観察できたので1回ぐらいはよしとしましょう。

暗い道に方向を迷いながら、道路工事中でデコボコ土道の大通りを歩き、煙台山の方向に歩いていきました。実はこの日の宿は予約していません。近代建築に泊まりたいという思いがあり、ネット上ではそれらしき物件を見つけられなかったため、直接現地で探そうということにしたわけです。

北馬路を東へ歩き、煙台山(といっても小さな丘)地区が近づくと、古そうな建物が目立つようになりました。薄暗い道をホテルらしきものを探して歩きます。いやホテルはあるんです、近代的なホテルが(<それでええやんか)。いろいろ探しながら、ようやく「便民角旅館」という近代建築の旅館を見つけました。「旅館」というのは中国では安宿です。

あまりきれいでもなく、狭くて、安いつくりでしたが、まあ寝るだけだからいいかとここに決めました。1泊30元(450円)です。シャワー・トイレ・洗面所は共用。40代ぐらいのおじさんが手続きしてくれましたが、外国人を泊めるのは初めてみたいです。

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遅い夕食は、北馬路に戻って、単(上がソ)県百年羊肉湯という羊料理のお店にしました。
単県というのは、山東省西部の荷沢市の一部で、江蘇省・安徽省・河南省にも近いところです。

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食べたのは虎醤羊肉、羊肉湯(スープ)の小、清炒苦瓜(ニガウリ炒め)、曹州焼餅で計56元(840円)。虎醤羊肉というのは、ゆでた羊肉をニンニクたっぷりの辛いたれに付けて食べるもので、初めて食べましたが、羊肉は非常に柔らかく、臭みが全くなく、かなり美味でした。曹州焼餅は胡麻の塩味ビスケットのようなものです。専用の窯があるようでした。
このときの食事が今回の旅行で一番当たりだったような気がします。
しかし、頼みすぎました。残してしまって気が咎めます。お持ち帰りという手があるのは、思いつきませんでした。

あとは寝るだけ。近代建築の中にはめ込む形で部屋を作っているので造りが悪くて、隣の部屋と隙間があるのはご愛敬ですが、ここで想定外の事態が。宿の夫婦(?)が、大げんか。夜中の3時まで怒鳴りあいが続いて、よく眠れませんでした。

1日目はほとんど移動で終わりました。
ちょっと文章が長すぎましたか?
2日目は煙台の近代建築を見て回ります。


○青島・煙台の旅の記事一覧
 (1)青島から煙台へ
 (2)煙台の近代建築に泊まる
 (3)煙台の近代と建築
 (4)煙台・海岸街の西側
 (5)煙台山の建物−1
 (6)煙台山の建物−2
 (7)煙台を眺める
 (8)煙台山の建物−3
 (9)煙台山の結婚撮影
 (10)煙台の旧金融街−海関街
 (11)煙台・海岸街の東側
 (12)煙台・東太平街
 (13)煙台の旧繁華街−朝陽街
 (14)煙台の旧市街
 (15)煙台から青島へ
 (16)青島の近代建築に泊まる
 (17)青島の桟橋周辺
 (18)青島の広西路
 (19)青島ドイツ総督府と邸宅街
 (20)青島の街を見下ろす公園
 (21)青島の奇怪な官邸
 (22)青島の石畳の街
 (23)青島の家と海を眺める公園
 (24)青島第一海水浴場
 (25)青島の石の別荘
 (26)青島八大関をさまよう
 (27)青島駅から中山路
 (28)青島ドイツ監獄など
 (29)青島湖南路から孔子記念館へ
 (30)旅を終えて

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2008年6月 8日 (日)

「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ

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石橋の大阪大学総合学術博物館「待兼山修学館」で、『「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ』と題した企画展が開かれています。豊中で用事があったついでに見てきました。

○開催概要
 「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ 
  ー経済でたどる近代大阪のあゆみー

 開催期間:2008年5月1日(木)〜7月5日(土)
      (日祝休館)
 開館時間:10:00〜16:30
 料金:無料

 江戸時代の商都から明治維新での停滞、五代友厚による殖産興業、金融機関の近代化、重工業の発展、生産効率化、技術者教育、企業メセナ、そして大大阪の時代などの展示内容になっています。長者番付など様々なリストが掲げられていますので、じっくり見れば面白いのではないでしょうか。ビジュアルでは銀行や化粧品など企業広告が楽しめました。

 この博物館を訪ねるのは初めてで、この企画展以外に思った以上に展示スペースが広いのに驚きました。待兼山の自然や教育に関する展示もあります。1階にはミュージアムカフェまであります。

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さて、総合学術博物館は建物自体も近代建築です。
昭和6年に大阪帝国大学附属病院石橋分院として建てられました。つまりは病院。
待兼山の坂を少し上がり、緑に囲まれた良好な立地です。(だから全景は撮りにくい)

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外観はとてもシンプルです。病院らしいといえばらしい。

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1階のカフェには屋外席もあり、洗い場から移設された壁泉が据えられています。

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エントランスホールに入ると正面に階段があります。階段と柱、手すりが柔らかな曲線を描いています。人研ぎの壁・階段に、角のみ褐色タイルが使われています。補修で色の違うタイルがはめられているのが、かえって表情になっています。

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踊り場にはそれぞれ工夫してデザインされたステンドグラスがはまっています。ポイントで使われる曲線が面白い感じ。

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屋上にはウッドデッキがあり、池田の街が見下ろせます。
ベースの近代建築を生かしつつ、気持ちの良い建物に改修されていました。

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石橋駅の東には洋館付き住宅などもあるようです。
展示を見るだけで時間がなくなってしまったので、後日再訪したいと思います。

○関連ホームページ
 ひろの東本西走「東洋のマンチェスター」から「大大阪」へ-1

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2008年6月 7日 (土)

大手前遊歩道

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大手前遊歩道というのは、大阪城の大手門の前にある公園です。大正13年に陸軍省貸下地を利用して、植樹し、遊歩道が整備されました。面積は7287坪。ちなみに大阪城公園は昭和6年開園です。

荒川章二さんの「軍用地と都市・民衆」(山川出版社日本史リブレット)、p62-63によれば、大正8年、大阪府会から内務省に、大阪城の師団が大阪市発展の妨げになっていると意見書が出され、要望は通らなかったものの、大正10年(1921年)に旧輜重兵第四大隊跡地1万3000坪が大阪府に売却されたのはその成果だとしています。
つまりはそれが大手前遊歩道になったのでしょう。

(追記)
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昔の絵葉書で見る大手前遊歩道。洋風のデザインで、すっきりしています。(2012.1.9記)

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<大大阪市街地図・昭和2年>

昭和2年の地図を見ると、周囲を軍関係の施設に囲まれていることが分かります。のんびり散歩する雰囲気ではないですね。

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北の端から歩き始めました。
外堀に沿って並木が続いています。

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やがて茶色い建物が見えてきます。

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大阪市水道局大手前配水場(旧高地区配水ポンプ場)です。
昭和6年、宗建築事務所の宗兵蔵によるものとのこと。幅の違うタイルを交互に使っています。銘板と市章に味があります。

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王冠や将棋の駒のような飾りがあります。
周囲の石材は砂岩系のようで、柔らかみがあります。

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中央には不思議な飾りがついています。
ラジエーターの付いたポンプ?
ポンプ場なのに装飾が多くて、味のある建物です。

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南側には気持ちの良い遊歩道があります。

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緩やかにカーブしながら、芝生と木立の間を抜けて道が続きます。

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反対側から。

※何らかのミスで以下の記事が消えていたため、改めて追記しておきます。(2012.1.9記)


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お堀端に気になるものがありました。
後に知ったところでは、これはラジオ塔。ラジオが登場して間もない頃から戦中期にかけて、ラジオ放送の普及のために全国各地に設置され、ここからラジオ放送などが流れていたそうです。


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2008年6月 4日 (水)

新潟まち歩き(21)心ひかれる街角

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2日間のことを長々書き連ねてきた新潟まち歩きの記録も20回でキリよく終了・・・でいいんですが、最後に心ひかれる街角を、雑感的に取り上げておきます。これが次の旅のスタートになるかもしれないので。

上の写真はホテルイタリア軒からみた寺町です。
寺の屋根が並んでいます。
今回、寺町は散策しませんでした。

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各寺には大通りから長い通路が伸びていて、その並びに心ひかれます。

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路地に面した家が多いので、目隠しは必須です。
てっぺんを山型に切った板を並べた目隠しをあちこちで見かけました。それもちょっと外に傾けているのがよくあります。このしつらえも心ひかれます。

他にも、心ひかれる街角はいろいろ・・・

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長らくお読みいただいた皆さま、ありがとうございました。
見残したものはいろいろありますので、いずれ新潟には再訪したいと思います。
そして、新潟に行ったことのない方、ぜひ足を運んでみてください。

最後に新潟絵屋のUさん、いろいろと教えていただいてありがとうございました。

<新潟まち歩きインデックス>
 (1)新潟へ
 (2)まずは新潟絵屋から
 (3)みなとぴあで歴史を知る
 (4)移築された銀行
 (5)上から眺める
 (6)小路の魅力
 (7)堀を想像する
 (8)街なかの近代建築
 (9)街なかの看板建築?
 (10)若者の上古町
 (11)花街のなごり
 (12)擬洋風の議事堂
 (13)日本で最初の白山公園
 (14)白山神社とポッポ焼き
 (15)近代公園いろいろ
 (16)ハンノキ島を歩く
 (17)信濃川クルーズ
 (18)砂丘をサイクリング
 (19)石油王の迎賓館
 (20)丘の上の近代建築
 (21)心ひかれる街角(完)

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2008年6月 3日 (火)

新潟まち歩き(20)丘の上の近代建築

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新津記念館を出た後は、さらに丘の上を歩きました。
新潟の丘というのは、かつての砂丘ということになります。

まずは新潟大学内にある、あさひまち展示館(旧新潟師範学校記念館)です。昭和4年に同校の創立50周年記念に建てられました。スクラッチタイル貼りの鉄筋コンクリート建築です。設計施工は清水組。1階は児童教育のための陳列室、2階は集会室だったそうです。(案内板より)
登録有形文化財。火・木・土は、資料館として公開されていますが、この日はお休みでした。

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側面も正面も同じようなデザインです。
実際以上に柱がたくさんあるように見えて、縦の線が強調されています。
これで完結しているように見えるんですが、この右側(奥)に木造部分のついた和洋折衷の建物だったそうです。その方がむしろ不思議。

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新潟大学医学部には、新潟医科専門学校時代の明治44年につくられた煉瓦塀と大正3年につくられた講堂正門が残されています。これも登録有形文化財。

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(追記)昔は門の向こうにこのようなこぢんまりと、でも立派な校舎が建っていました。のちに門の間隔を広げたようですね。(2009.5.13)

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右側の門柱です。煉瓦と花崗岩の、赤白の対比が美しい。
定番の組み合わせですね。古い写真で見るとさらに両側に一組、一回り小さな門柱が立っています。

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古い煉瓦塀も移築しつつ、新たに煉瓦塀がつながれています。
煉瓦にツタもお似合いの取り合わせ。

(追記)
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<絵葉書 昔の新潟医科大学の裏側>(2010.3.20記)

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招魂坂(ワルツ坂)の上には出窓のある洋館が建っていました。
新津記念館もそうですが、洋館はこういうロケーションが似合います。

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壁は1階、2階で塗り分けられています。
格子など直線的ですっきりしたデザインです。

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シンプルな洋館付き住宅もあります。

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ドッペリ坂。ドッペリはダブルのドイツ語だそうです。坂の上に旧制新潟高校の寮があり、学生がこの坂を下って町に遊びに行くと落第するという意味で名付けられたとか。正面にNEXT21が見え、町の中軸線上にあることが分かります。


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雨脚が強まり、逃げ込むように砂丘館に入りました。
旧日本銀行新潟支店長役宅で、昭和8年に建てられました。元々は丘の下にあったそうですが、移築されて残っています。今は新潟市が買い取って、ギャラリーやレンタルスペースに使われています。夜9時までオープンしていて、利用しやすいのではないでしょうか。

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和室より。この家の魅力はいろんなところからお庭を眺められることだと思います。

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2階からもこんな具合に、木々の緑が広がります。
コーヒーも提供していて、応接室でも、和室で庭を眺めながらでもいただけます。
雨降りでも、庭を眺めている限りはいいものです。

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さて、雨は降り止みませんが、また歩き始めます。
砂丘館の並びに洋風の建築がありました。随分細かく縦の線が入っています。窓は上げ下げ窓のよう。
今は何に使われているのか分かりませんが、エイボックという人材派遣会社の看板がかかっていました。

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大きく張り出した玄関の庇と、直線デザインの持ち送りが特徴的です。

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さらに坂を下りかけて、これは新潟市長公舎だと思うのですが。
新潟市長公舎は、大正11年に建てられた和洋折衷の中廊下式住宅だそうです。今も新潟市の所有で活用が検討されているようですが・・・どうなっているんでしょう。

(追記)旧市長公舎は、「安吾 風の館」として2009年7月から公開されています。
 2010年に再訪しました。
 >「新潟なつ歩き(7)夏の庭を眺める」(2012.4.1記)

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ドッペリ坂の下まで下ってきました。
この地区のシンボル的な新潟カトリック教会の双塔があります。昭和2年にスイス人建築家ヒンデルの設計で建てられました。木造だそうです。この日の天気はあいにくでしたが、どこかメルヘンチックな印象を受けます。晴れていればなおさらでしょう。

日も暮れて、雨脚もさらに強まり、今回の探訪はここまでとしました。かなりたくさんの地域を見残してしまいました。いずれ続きはここからスタートしようと思います。

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2008年6月 1日 (日)

新潟まち歩き(19)石油王の迎賓館

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新潟の町の西には丘があって、大学や住宅などが建っています。
その一角にある新津記念館は、新潟の「出雲崎町出身の石油王・新津恒吉が、外国人用迎賓館として昭和13年に建てた西洋館」(パンフレットより)だそうです。「石油王」というのが新潟らしいところ。設計は大友弘、施工は清水組。鉄筋コンクリート造で地下室もあります。

この写真は庭園からで、右側が正面です。

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立派な車寄せです。
下から粗い石張り、タイル、テラコッタ。

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テラコッタ部分を拡大してみました。
かなり凝っています。

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玄関部分。ゆるく優雅なカーブを描いています。
玄関上部にはこれまた繊細な金属装飾。
内部は推して知るべし。

内部撮影は禁止なので、内部の様子は新津記念館のHPに一部紹介されているものか、『日本の洋館 第六巻 昭和編Ⅱ』のp134〜141をご覧ください。

1階はジャコビアン様式のイギリスの間、2階はロココ調のフランスの間、3階はシンプルなドイツの間(非公開)と呼ばれる部屋があり、暖炉・階段柱など木には彫刻、天井には漆喰細工、床には絨毯、窓にはステンドグラスで、これでもかという装飾密度です。私などはあまりの濃密さに「うっ」となってしまいました。もう少しシンプルな方が好みなのですが。

ただ、アメリカ製だという2階のステンドグラスは、泰山木にブルージェイがとまっている伸びやかな図案でとても気に入りました。(鳥の名前まで特定しているのは、ネットで調べていて、川越にある山崎家別邸の小川三知作のステンドグラスが全く同じモチーフだと分かったからです。この組み合わせは梅にウグイスみたいなお決まりなんでしょうか)

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また外に出て、床下換気口のグリルを見ます。
植物をモチーフにした、ここも細かい装飾です。

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庭園の方に出てみます。

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ヴェランダから見た庭園。
広々した庭の向こうに新潟の町が見下ろせます。

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ヴェランダ部分に上がるところの踏み石。
龍が彫刻されています。

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ヴェランダの側面部分。
こんなところにもタイルを使っています。

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こちらは屋敷全体の入り口のよう。
昭和初期っぽい直線的なデザインです。

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すぐ隣には和館も建っていて、こちらは今もお住まいなので当然非公開です。でも和館のお庭は公開されています。

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記念館の方にいろいろと庭の解説をしていただきました。
この庭石は「佐渡の赤玉」という石(チャート)だそうです。今は採掘できません。ほんとに赤いですね。

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石臼に木が生えてますが、ただの石臼ではなく、金山の石臼だそうです。説明してもらわないと分かりません。とことん凝ってます。

私の想像を超えるようなこてこてな世界でした。
これぞ石油王の迎賓館、といえるでしょうか。

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