2019年1月18日 (金)

名和児童公園(京都市上京区)

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続いて、名和児童公園を訪ねました。

開設は昭和15年で、現在の面積は492㎡という小さな公園です。
入口には鳥居があって、公園というよりも神社です。
その脇には「名和長年公遺蹟」と書かれた柱が立っています(昭和14年)。
そう、名和児童公園の名前は、名和長年から取られています。

訪問日:2018年9月22日

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さらに右手にもう一本、昭和11年の「此附近名和長年〜〜」という柱も。

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公園にはブランコとちょっとした乗馬型の遊具があるぐらいで、公園としての見どころは少ないと言えます。

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周りを囲む塀に赤瓦が載っているのが面白いですが。

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あくまで主役は隣にある「贈従一位名和長年公殉節之所」という碑です。
解説板があって、名和長年は、伯耆国名和(現在の鳥取県大山町)を拠点に海運業を行っていた豪族で、隠岐に流されていた後醍醐天皇が島を脱出した際、その湊に上陸し、以後、忠臣となって戦功を挙げたため、伯耆守に任ぜられ、帆掛け船の家紋を与えられた。その後、建武三年、足利尊氏と戦って、この地で討死したという説明があります。

成り立ちとしては、大阪の北畠公園と似ているように思います。明治維新後に再評価された人物ゆかりの地が、昭和15年頃に公園として拡張整備されるというパターンです。

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碑の前にはこういうものも。
奥が井戸、手前が手水鉢のようです。手水鉢は埋められてしまっています。
正面には「奉納 大日本國防婦人會」と右から。
側面には「昭和十」(その下は埋まっていて読めません)

四隅に礎石があって、以前は屋根がかかっていたようですね。
全く神社のようです。

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そして裏面には帆掛け船の紋が浮き彫りされています。

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南東隅には「紀元二千六百年竣工紀念」(昭和15年)の石碑。
こちらと一体で公園が整備されたのですね。

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北東には御大禮記念樹という標柱も。
何を植えたのでしょう。

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また、それだけでなく、この地は源氏物語ゆかりの一条院跡であるという解説板もあります。

とても小さいですが、ある種の歴史公園になっています。
公園としての見どころは少ないものの、特色ある公園になっています。

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ちなみに公園の北西の方にこのバーバーやまぎしの建物があります。

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2019年1月17日 (木)

内野児童公園(京都市上京区)

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京都の近代の公園、次は内野児童公園(大極殿公園)です。
二条城に比較的近い所にあります。

昭和15年開設で、現在の面積は1571㎡。
公園はT字型をしていて、三方に入口があります。
ここの公園名表示は昭和中期ぐらいでしょうか。

訪問日:2018年9月22日

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こちらはT字の一番下の入口。

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T字型の左の端。公園の境界は「7」字型のブロックを鉄パイプでつないだ形です。

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京都に限らずですが、公園の中にはお地蔵さん。

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金網で囲まれて、児童用プールが残っていました。
ここはそのまま残っています。

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シャワーの跡でしょうか。
コンクリートの柱が立っています。

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T字の真ん中には大極殿遺址碑が立っています。
明治28年、平安遷都千百年紀念祭において、大極殿がこの場所にあったと比定された記念碑だそうです。
実際には南東で遺跡が見つかったとのこと。

大極殿の跡ということが、この公園の一番の特色になっています。

 >京都市HP「大極殿遺址碑」

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T字の右の入口には、「大極殿遺址道」の標柱(明治28年)が立っています。
記念碑と同時期に設置されています。

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その先にひっそりとあるのが、おそらく国旗掲揚柱。正面には「南小山町」、左側面には「昭和十九年十一月建之」と書かれています。昭和十年代も終わりになると細い柱が多いような気がします。

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そして、もうひとつのお地蔵さん。
ここにも南小山町と書かれています。

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T字の横棒を左から。

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ここにも脚がアーチのベンチがありました。

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この公園の砂場は小振りです。
そして人研ぎの滑り台。

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古い公園の特徴として、公園に玄関を向けている家がありますね。他にもありました。
ここから家に帰ってくるなんて面白いですね。

すぐ近くに二條児童公園(昭和9年)があって、公園自体は新しく改修されていますが、周囲(主税町のあたり)に近代のものらしき住宅地があるのでそちらもお勧めです。

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2019年1月16日 (水)

鹿垣児童公園(京都市中京区)

京都市文化市民局編『京都市の近代化遺産・産業遺産編』(2005年)のp70に公園関連年表というのが載っていて、京都市内の戦前の公園の開設年が出ていますので、これを地図にプロットして見て回っています。

ということで引き続き、京都の近代公園の紹介です。
今回は昨年9月に西側の公園を回った中から、まず鹿垣児童公園を。

訪問日:2018年9月22日

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今回、JR嵯峨野線の円町駅から歩きました。
2000年に開業したばかりの駅なので、近代期の都市化に影響は与えていません。

東に歩いて行くと、天神川にぶつかり、西ノ京橋という古そうな橋が架かっています。
親柱には江戸時代の名残を残す紙屋川の名称が書かれています。現在は北野天満宮から上流のみが紙屋川と呼ばれるそうです。

地図にプロットしてみるとこの天神川の両側に近代の公園がいくつもあります。
上流では意外と深い谷をなしていますので、ここが都市化の前線だったのでしょうか。

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川を渡ったところにレトロ感のある散髪屋さんがありました。
BARBER オオヤギと書かれています。
玄関が丸っこくて柔らかい表情です。

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鹿垣児童公園にはすぐ着きました。
昭和13年開設で、現在の面積は796平米の小さな公園です。
たぶん面積は変わってないのでは。

南北で接道していて、両側に入口があります。

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門柱は古いデザインが残っているようで、花壇を抱き込むようなデザインになっています。
この時代らしくあちこちが丸い。

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鹿垣児童公園の文字も右から書かれていて、古そうです。
金属製らしく見えるので、復刻版かも。

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北側の入口は花壇がない分、あっさりしていて、南側が正面のようです。

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道路との仕切りは透かしブロックを積んだ塀で、面白いデザインです。

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北東側から見た公園。
小さい公園なので、段差などはありません。

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公園の中を古そうなものから見ていきます。
まずこのベンチ。
アーチを描く脚がきれいです。
重量感があって、ある程度古いのではと思わされます。

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こちらはもう少しシンプルなベンチ。
さっきのより材料が節約されているような。

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昔ながらのコンクリートの砂場。

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よく見る人研ぎの滑り台。昭和中期でしょうか。
そんなところです。

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周辺には近代の住宅地らしい雰囲気も少し残っていました。

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2019年1月10日 (木)

南部児童公園(京都市伏見区)

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昭和12年の皇太子殿下ご誕生記念公園からもう一つ。
京都市伏見区にある南部児童公園です(昭和17年開園とも)。ここは名前に児童公園が入っています。
これも土井勉さんの「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」(土木史研究、第11号、1991年6月)からの情報です。

面積は2619㎡で、伏見商業学校の跡地利用とのこと。
私立伏見商業学校は、大正5年の創立で、手狭になったため、昭和5年に現在の市立桃山中学校の位置に移転したということです。

訪問日:2018年2月25日

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公園の入口はアールを描くデザイン。
この部分は新しそうに見えます。

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公園の2つある入口はどちらも通路になっていて、中庭のような公園です。
この写真は東側から見たところ。

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古そうなデザインが残っていて、例えば、公園の北側にあるこの部分。
これだけでは何か分かりませんが、この形だと、中央に壁泉があったのではと思えます。

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砂場は年代不明。その奥に何か見えますでしょうか?

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これです。明らかに古そうなコンクリート。
所々にアールが入っています

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裏を見ると金具が出ていますので、国旗掲揚台だと思います。

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人研ぎの滑り台。昭和中期でしょう。

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公園の東側の通路接続部分。ここのコンクリートのデザインにも若干のアールが入っていて、古いものと思われます。

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敷地東側の通路。ここは民家に挟まれています。
花壇部分もデザインされているような。

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東側入口。明確な門柱などはないですが、門の痕跡があります。

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もう一つ、この公園の特徴として、公園の北側にも鉄柵があります。
これが何かというと。

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その向こうにはプール!
この時の児童公園にはプールが併設されていたという説明通り、(戦前のという感じではないですが)25mプールが残っています。
残念ながら2000年頃から閉鎖されているようです。

使われていないとはいえ、プールを併設する公園という形を残している点で貴重な公園だと思います。

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2019年1月 6日 (日)

富小路殿公園(京都市中京区)

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昨年の2月のことですが、京都の富小路殿公園を見に行きました。
これも土井勉さんの「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」(土木史研究、第11号、1991年6月)に、昭和12年の皇太子殿下御誕生記念公園のひとつとして紹介されているものです。
3381平米で、実習商業学校の跡地とのこと。

京都御所の南で、ほんとにまちなかです。

訪問日:2018年2月18日

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公園の裏側(東側)。こちら側からは細い通路が通じています。

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裏側の入口に京都市立商業實修学校の跡地であることを示す案内板があります。
明治33年から昭和11年までこの地にあったのですね。
そして、昭和12年に公園が開園ということは、ちょうどタイミングが良かったということでしょう。

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さて表に戻って、門柱には右からの文字で富小路殿公園と表示されています。
大理石に彫られているようですし、戦前のものでしょう。
薄い石を貼って、上に御影石の石材を乗せる形式です。

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門柱から階段状に下がりながら、カーブして公園を縁取っています。
このあたりまで古いデザインを留めているのでしょう。
なんとなく、船岡山公園で見たデザインにも似ているように思います。

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また、中央の藤棚周辺にも元々のデザインと思われる部分があります。
藤棚自体は新しいと思います。

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もう少し近くから。
門柱とも共通するデザインです。

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中央のこれは、後ろに溝を切ってあるので、水関係、水飲み場か噴水と思われます。
児童公園なので、子ども用の水飲み場でしょうか。

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後ろから見るとこんな感じ。
後ろにも花壇が巡らせてあります。

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藤棚の下にはベンチ。反対側にもあります。
これは古いのかどうか判断しにくいところ。

古そうな部分は以上です。

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公園の西半分です。

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顔の付いた、ユニークな富士山型遊具。
顔に足をかけて登るようになっています。

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人研ぎの滑り台。
昭和中期っぽい。

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コンクリートの砂場もあります。

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さてここまで、あえて見てませんでしたが、敷地の北側境界には煉瓦塀があり、その向こうには教会があります。

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京都ハリストス正教会生神女福音聖堂です。
案内板によれば、明治34年に建物は完成していたものの、ロシア正教会から寄附された聖障(イコノスタス)、教鐘、大燈明などの到着が遅れたので、オープンは明治36年だそうです。
京都市立商業實修学校とはほぼ同時期にできたのですね。

教会をバックに、開設時のデザインも残っていると思われるまちなかの公園。
貴重だと思います。

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2019年1月 3日 (木)

六条院公園(京都市下京区)

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昨年の8月の終わりに、京都の六条院公園に行きました。
以前から、近代の公園を見て回っているのですが、京都については、土井勉さんが「土木史研究」に投稿された「京都市の公園形成史-第二次大戦前まで-」という論文を参考にしています。

その中で、昭和12年に皇太子誕生にあたり、京都市では50万円で記念事業を行うことになり、子どもの誕生を祝う事業としては子どもための公園が良いだろうという提案が通って、市街中心部に7つの児童公園が計画されたと紹介されています。

富小路殿、六条院、橘、玄武、南部、小坂、坊城の7つです。
このうち坊城の用地は交通局の車庫になり、実現しなかったそうですので、できたのは6公園です。

これらの児童公園は当時としては整備水準が高く、プールを併設していたということで、ぜひその公園をみたいなと出かけた次第です。

同論文によれば、六条院公園は2317㎡。旧下京区役所の跡地に作られたとのことです。
旧下京区役所というのはこれでしょうか。
(株)津田甚建設HP「京都市下京区役所(木造)」
大正6年にできています。

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公園の北東の入口。
六条院公園の表札や周囲のデザインは古いのではないかと思います。
下の方は鉄平石が貼られています。

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北西入口の全体。

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南東入口も同様のデザインです。やや改修されているよう。

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公園の中にはいくつか気になるものがあります。
これは水の流れるようなデザインなので、水飲み場でしょうか。

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こちらにはベンチ。

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ベンチの後ろにあるのは、形からいって国旗掲揚台でしょう。
後ろに半円状の窪みと柱を固定する穴があります。
デザインもアールデコといえなくもない曲線です。

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敷地の南端は何段か上がって、テラス状になっています。

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階段の真ん中には花壇があったようですが、木が育ちすぎて破壊された模様。木も刈られてしまっています。

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そんな写真を撮っていると、公園に面して工事をしていた方に声をかけられました。
さすがにあやしいですよね、公園で何もないようなところを写真撮っていたら。
この方、「そのうちカフェ」というお店を作ろうと準備されているところなんだそうです。
ユニークなことに、公園に面して利用する代わり、公園の草刈りなどの管理を請け負っているそうです。

そして、地元の人に聞いたという、この公園の昔の姿を教えていただきました。
先ほどのテラスのようなところにかつてプールがあったそうです。
立派な公園だったとのことです。

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そして隅にあるこの扇形の区画。
部分的に柵で囲まれていて、角に何かあります。

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近づくとこんな感じ。
明らかに水が出ていたように思われます。
私は壁泉と池かなと思ったのですが、幼児用プールの跡だそうです。

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低い壁には鉄平石が貼られていました。

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プール跡の方も見てみます。

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周囲を見て回ると、南端の中央部に柱の跡のようなものがありました。

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それ以外にも砂場があったり。

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コンクリートの遊具があったりします。
この遊具は以前、紫野柳公園でも見ました。

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1ヶ月ほどたって再訪してみると、「そのうちカフェ」がオープンしていました。古い建物が大工さんの手でリノベーションされています。
ご夫妻がきのこ採りが趣味とのことで、場合によってはきのこ料理があったり、本格的な中国茶があったり、面白いお店です。冬には囲炉裏が使われるそうです。
何より、公園から出入りできるというのが良いです。

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ついでながら、公園の東側には東本願寺の高倉会館があります。

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案内板によれば、高倉会館は東本願寺の学場「高倉学寮」の講堂を始まりとし、現在の建物は、幕末の兵火で焼失した後、明治16年に本格的に再建されたものです。
真宗大学(現大谷大学)の講堂だった時期もあるそうです。
大学移転後の大正時代には一度荒廃しますが、大正11年、新たな聞法道場「高倉会館」として復興しました。昭和5年には高倉保育院が併設されています。

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石切場跡の岡公園(和歌山市)

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昨年6月に行った和歌山の岡公園を紹介します。
和歌山の公園といえば、和歌山城のある和歌山公園が有名ですが、その南にそれより古くて見どころも多い公園があるんです(後で知ったのですが)。

灯籠形の門柱の左奥に見えている山は、天妃山と呼ばれているようです。

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この公園、紀州青石(緑色片岩)の露頭があって、それが遊具になっているというもユニークです。

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そしてこちら、割られているのが分かりますでしょうか。
和歌山城築城時の石切場跡です。ここから切り出された紀州青石が天守閣や本丸周辺の石垣に使われているそうです。
ロッククライミング禁止の立て札も立っていました。

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次に触れますが、紀州藩時代には天妃山(弁天山)の周辺を屋敷が取り巻いていたので、その名残でしょう、井戸があります。

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そして岡の登り口の右手に岡公園碑がありました!。明治29年に建てられ、公園開設の経緯が記されています。
まずは原文から。漢文調で書かれているので、文の切れ目もなく、ずらずらと書かれています。


 岡公園記

岡公園辨天山𦾔址也初元和中徳川頼宣封於
紀伊也諸士第宅環繞山麓而辨天
山秀乎其中一登為則城内可俯視也以故藩制
不許登臨維新以降第宅頽敗鞠為
茂艸而辨天山草樹弥茂灌莽弥深終為狐狸蛇
蝎之窟矣明治十三年𦾔藩主徳川
茂承縣令神山郡廉及陸軍大佐岡本兵四郎諸
人憑弔佐賀熊本臺灣西南四役殉
難者為建記念碑於此相地興工艸樹去而奇石
出灌莽除而清泉迸旬是縣民漸有
遊覧於斯者十七年縣令松本鼎等又於山下設
亭榭以為遊息之所及二十七年縣
議始請於官以辨天山為公園併山下亭榭附属
之地在岡山之東國史云
聖武天皇神亀元年幸玉津島造離宮於岡東盖
斯地也命曰岡公園者所以用古名
也然有公園之名而未有公園之實焉去載予又
欲於山巓建我縣討清軍人紀功之
標詢之一縣吏民同聲一辞莫不賛襄者焉於是
園工又大作而公園之實始完矣盖
山勢雖不甚高而樹木蓊然以深導山之餘浸以
為坡池岡山之凸石以為丘阜惟要
去樔翳以就修潔不以人工而破天然老松古栢
有深山之氣奇花異艸有幽谷之美
其廣可以逍遙為其樂可以盤桓焉而前臨古城
則思念封建将士尚武之形況左顧
岡山則敘仰往古 帝王右文之氣象近誦記念
碑碣則知國家三百年養士之有素
則凡遊於斯園者非持花晨月夕俯仰徘徊以養
生也而其於左右顧肇之閒養氣者
亦為不尠焉

明治二十九年夏五月
 和歌山縣知事従四位勲三等沖 守固 撰
          正五位日下部東作書并篆額


 ※不正確かもしれませんので参考程度にご利用下さい。

 これでは意味が分からない人も多いと思うので、私なりに現代語訳してみます。
 ざっくりしてますので、部分的には間違っているかも。
 
 岡公園記

 岡公園は弁天山の旧蹟である。元和年間に徳川頼宣公が紀伊に封ぜられ、武士の邸宅が山を取り巻いた。弁天山に登ると城内を見下ろすことができるので紀州藩時代は山に登ることが禁止されていた。明治維新以降、邸宅は荒廃し、雑草が茂り、弁天山には草木が生い茂り、ついには野生動物の巣窟となってしまった。
 明治13年、旧藩主の徳川茂承、県令の神山郡廉、陸軍大佐の岡本兵四郎らは、佐賀・熊本・台湾・西南の四役の殉難者を弔うため、この地に記念碑を建てた。草木を取り除くと奇石が現れ、雑草を取り除くと清泉が迸った。ここでようやく遊覧する者が来るようになった。
 明治17年、県令の松本鼎らはまた山の下に東屋を設け、遊びや休憩の場所とした。
 明治27年には県が弁天山を正式に公園として請願した。山の下の東屋附属の地は岡山の東にあり、これは国史にいう、聖武天皇が神亀元年に玉津島に行幸し、離宮を岡の東に造営したというのがここであると。岡公園の命名はこの由緒ある名前からとったものである。しかるに公園の名前はついたが公園の実はなく、山上に我が県軍人の日清戦争での功績を称えるモニュメントを県の役人・県民全員が賛同して、公園の工事を大々的に行い、公園の実が初めて成った。山はそれほど高くないとはいえ、樹木の陰は深く、山の湧水を池とし、岡山の突き出た石を丘として、茂みを刈って整えれば、人工によらなくとも天然の老松古柏には深山の雰囲気があり、珍しい草花には幽谷の美がある。広く逍遙して楽しみ、歩き回り古城に向かって封建時代の武士の武を貴ぶ様子を思い、左に岡山を見ては、古を思い、帝王が文章を重んじた気配を記念碑を読むことで思い、国家300年の士を養うもととなる。
 およそこの公園に遊ぶものは、花(春)の朝方、月(秋)の夕暮れでなくとも、見上げ見下ろし、歩き回って養生し、左右の碑文に鋭気を養うものが少なくないはずだ。

 明治29年夏5月 和歌山県知事 従四位勲三等 沖守固 撰
                      正五位 日下部東作 書ならびに篆刻

 最後の方、分かりにくいですが。

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ということで、公園内を見ていきます。
紀州青石の広い階段を上っていきます。

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オブジェのような石の水盤がありました。

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途中、たくさんの記念碑がありましたが、きりがないので省略します。

こちらは岡公園記に出てきた、四役戦亡記念碑(明治12年)。
幸い、解説板がありますので、そこから抜粋します。
四役とは、明治7年から10年の間に起こった佐賀の乱、台湾出兵、熊本神風連の乱、西南戦争のことで、和歌山県出身者では491名が戦死したそうです。

隣には「四役戦亡記念碑側記」(明治16年)が立っています。


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そして一番高いところには、巨大な槍先のモニュメントが空に聳えています。
これが岡公園記に出てきた征清記念標(明治28年)というものです。
大阪砲兵工廠で作られたものです。
運び出せなくて、金属供出を免れたのでしょうか。

登ってみたかったのですが、モニュメントの下は学生のたまり場になっていて、遠慮しました。

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近くにはモニュメントの説明である征清記念標碑(明治28年)があります。

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足元からでも、結構眺めが良いです。

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東側に降りてみます。
古そうな石橋があります。
こちら側に東屋があったとのことでした。

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庭園のような流れが作られていて、弁天さんなどがあります。
弁天山に祀られていた弁天さんなのでしょうね。

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岡の南の池。
石切場跡に水がたまったものかもしれないとのことです。

もともとあったものは以上ですが、昭和になって移築されてきたものもいろいろあります。

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こちらは武徳殿。武道館です。

和歌山県建築士会さんの記事によると、明治38年に和歌山市真砂町に建設された後、昭和36年に現在地に移築されたそうです。

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「大和歌山市街地図」(昭和6年)

昔の地図を見ると、岡公園の西の方に武徳殿と記されています。
岡山の場所もこれで分かりますね。

ここに描かれている公会堂は今はありません。

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また北側には旧大村家住宅 長屋門があります。
解説によると、江戸時代末期、現在の東坂ノ上丁に建てられ、明治30年頃に所有者が変わって堀止東に移築、解体されそうになったところを和歌山市が引き取って、2017年に現在地に移築され、公開されています。

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公園の東には茶室 夜雨荘があります。
江戸時代後期の武家の茶室で、昭和62年に移築されました。

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また建物以外にも蒸気機関車も保存されています。
昭和14年に製造され、大阪、白河、大宮、鹿児島、宇治山田などを回って、最終的に昭和47年まで紀勢線・和歌山線を走って引退したものだそうです。そして昭和48年に岡公園に移されました。

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もう一つ、チンチン電車三二一号というのもあります。
解説によれば、昭和46年に市電が廃止になり、この1台と海南市にある1台を除いて、海底に魚礁として沈められたそうです。

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最後に、大型の滑り台。
随分急角度で、高さも通常の1.5倍ぐらいあるのではないでしょうか。
子供たちに大人気でした。

これ以外にも記念碑など数多くありますし、地形的にも面白く、かなり見応えのある公園でした。

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2019年1月 1日 (火)

2019年もよろしくお願いします

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2019年、明けましておめでとうございます。
今年もあちこち積極的に出かけていきたいと思います。

このブログの今年の方針としては、
・既に取材してある記事をできるだけ載せていくこと
 (とくに公園関係。たくさんあります)
・近代の公園の調査、ラジオ塔の現存確認
を最重点にしていこうと思っています。

昨年ほど更新が少ないということはないと思います。

また、最近、記事にした建物の解体が多くなっています。
気付いた時は記事に追記していますが、自分で書いた記事も全体に目を通せてなくて、追記漏れがあることと思います。もちろんなくなったことを知らない建物もあります。
お気づきのものがありましたら、コメント欄やメール、SNS等でお知らせいただければ対応します。

感想などもいただけるとうれしいです。

本年もよろしくお願いいたします。

なお、タイトル写真はお正月ということで、昨年撮った写真の中から、おめでたい写真を選びました。
場所はJR吉野口駅前(奈良県御所市古瀬)です。

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2018年12月31日 (月)

2018年を振り返る

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今日は街歩きをするつもりはなかったのですが、確認することができて大阪の放出(はなてん)へ。
いろいろ面白いものがあった中で、この物件、強いていえば車庫です。
このサイズで車が収まっていて、後ろは作業スペースなのでしょうか。
カテゴリに入れにくいものに出会うのも町を歩く楽しさです。

今年を振り返ると、書いた記事はこの記事を入れても9本という最少記録を更新してしまいました。
しかもそのうち、6本はここ一週間ほどで書いているという恥ずかしい状況。

書いてはいないけれど、たくさん出かけて、たくさん写真は撮っています。

このブログ以外では、インスタグラムなどに投稿し、ご縁があって4月には天下茶屋のBar Red Cornerさんで各地の石の風景を取り上げた「石並十色展」と「石のふるさと展」、11月には同じく天下茶屋のカエルハウスで「面格子写真展3」を開催しました。
「散歩なう」というお散歩雑誌にも投稿しています。
そういう意味ではいろんな形で発信はしています。

先日、このブログで取り上げた岸里トライアングルという(勝手に呼んでいる)エリアに、久しぶりに現状確認に行きました。
そして、消えた建物、消えそうな建物を見て儚さを感じました。

要因はいくつか見えていて、
1つには、訪日客の増加で特に大阪ではゲストハウスの建設が盛んです。
2つめには、今年の天災。大阪では北部の地震と9月の台風21号で、住む人のいる家でもいまだ屋根にブルーシートがかかっている所が少なくないですし、まして管理する人のいない空き家などは荒れるに任されています。ふだん空き家も愛でていますが、被害を受けたときのもろさを痛感しました。
そして、今後は万博に向けて各所で建設が進んでいくでしょう。

初めの頃からブログを書く上で意図していることは、消えていく近代の建物などを記録すること、できれば消える前に多くの人に見てもらうことです。

それを考えると、撮ったもの、知ったことは、公開の場に出していかないといけません。
知るきっかけにさえなれば、今は情報の入手方法はたくさんあるので、それぞれの方で調べてもらえるでしょう。
自分で仕上げなくてもいいと考えると、少し肩の力が抜けて、またブログを書きやすくなったような気がします。
それが最近の状況です。来年は恐らく更新は(今年比)かなり増えると思います。

更新の少ないこのブログを見に来ていただいてありがとうございます。

皆さまもそれぞれの世界で、よいお年をお迎えください。


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2018年12月30日 (日)

紀三井寺を知る(和歌山市)

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このところラジオ塔づいています。
今度は紀三井寺に確認に行きました。
ここは昭和15年にラジオ塔が建てられた記録があるそうです。
紀三井寺の名前は昔からよく聞きますが、大きなお寺なのかなぐらいの認識しかありませんでした。

JRの紀三井寺駅を降りたときの印象は、思ったより静か。
もっと観光地っぽいのかと思っていました。

山沿いの旧道をたどろうと旧道に入ったところ、逆方向に「吉祥水」という案内板が立っていました。
関係ない(と最初は思った)のですが、湧き水などは好きなので、ちょっと寄り道。
階段を上っていきます。

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するとそこには江戸時代1650年に紀州徳川家初代藩主頼宣公が整備させた水槽や銘刻、石樋、敷石等がありました。
知らなかったのですが、紀三井寺の三井は、同じ名草山麓にある吉祥水、清浄水、楊柳水の3つの井戸から来ているのですね。(ちなみに滋賀の三井寺は御井であって、3つではないらしいです)

それもずっとここにあったというものではなく、終戦前後の天災(1944年の昭和東南海地震や1946年の南海地震?)で土砂が崩落して埋没、昭和55年に周辺が宅地開発される際、有志が現地を確認して水槽を発掘、守る会が山内を探索して地下水脈を発見して導水したというドラマチックなことがあったそうです(案内板より)。

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ここからの眺めは良く、和泉山脈まで見えています。
写真が小さいので分からないかもしれませんが、右手奥のボーリング場の左に和歌山城が見えています。

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途中、道脇に巨石がごろごろしている旧道をたどっていくと、紀三井寺の門前に出ます。
急に観光地らしくなりました。
(これは帰りに撮った写真)

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門前の灯籠の足元に紀三井寺村道路元標があります。
まさに中心。

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紀三井寺の入口まではほぼ平坦で、ここから急に参道が立ち上がっています。
楼門が見えています。このあたりから、キョロキョロとラジオ塔の痕跡がないか探し始めます。
ある程度の広さがある広場なども確認。

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楼門をくぐると、ここからいくつかの踊り場をはさみながらまっすぐの階段。
脇には見上げるような紀州青石の石垣です。
実際に見るともっと急な階段に見えます。

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参道脇にあるのが三井の一つ、清浄水です。
もう一つの楊柳水には今回行けませんでした。

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メインの階段は花崗岩かと思いますが、脇に紀州青石の階段もあります。
石垣と一体化して、どこまでも積み上がっていく紀州青石。

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階段を上りきって振り返るとこんな感じ。海が見えます。

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本堂前は舞台状になっていて、ここからは和歌浦が見えます。
ここで初めてこの場所の意味を知りました。
和歌浦が一望できるベストの場所なんですね。
いい水が出て、眺めが良い、場所ありきなのかも。

紀三井寺は、奈良時代の770年、唐僧の為光上人によって開基されたそうです。
西国三十三所観音霊場の第二番札所になっています。

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本堂前の線香立て。
お寺の紋も、三つの井なんですね。
3体の鬼?が支えています。

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100円払って、2002年に出来たばかりの新仏殿の3階廻廊に上がると、さらにさえぎるもののない景色が見られます。こちらは南の方。

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北の本堂の方を見るとこんな感じです。
本堂前が広場になっていますでしょう。
ラジオ塔を置くとしたらこの広場のあたりかな。

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西を向けば、和歌浦の長い砂嘴、片男波が一望できます。

新仏殿の当番をされている女性にラジオ塔のことを尋ねてみたところ、昔から門前に生まれ育った方だそうですが、記憶にないそうです。ただ、門前の土産物屋が並んでいる道で昔からラジオ体操をやっていて、今もやっていると教えていただきました。
ここまで上がってくるのは大変なので、門前の方が可能性が高いような気もします。

さらに土産物店の方々にも聞いてみました。
昭和20年代からここでラジオ体操はしていたけれど、ラジオ塔の記憶はないそうです。
今回も残念ながら見つけることはできませんでした。

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ラジオ塔は置いておいて、さらに周辺を探索。
若宮八幡神社の忠魂碑。
ちょっとアールデコが入っている?

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若宮八幡神社の参道に古そうな橋が架かっていました。
八幡橋という名前です。昭和○年と書かれていますが、肝心の何年かが読み取れません。
見たところ、セメントで補修しながら使い続けられているようです。

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この川は水運に使われていたのか、所々、川に降りていくスロープがあります。
護岸が紀州青石なので、表情に味わいがあります。

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この川に沿って歩いて行くと、JRの線路の向こう側に煉瓦の橋脚が見えます。
後で調べると、南海和歌山軌道線という市電が和歌山駅から和歌浦、紀三井寺、海南を結んでいて、この区間は明治44年にできたらしいので、その頃のものかと思います。今は自転車道になっているようです。

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後で和歌浦まで足を伸ばしました。
正面の山裾に見えているのが紀三井寺です。
思ったほど高くはありません。

和歌浦と一体なのだというのがよく分かります。

和歌浦の方も歩いてみます。

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